16 芸術家と金 ヨハン・シュトラウス
ヨハン・シュトラウス2世(1825 - 1899)は、オーストリアのウィーンを中心に活躍した作曲家・指揮者。
自分の誕生時にはすでにウィンナー・ワルツの作曲家として有名だった父ヨハン一世の影響を受け、息子ヨハンは音楽家に進みたいと思った。
彼のデビュー・コンサートは10月15日、シェーンブルン宮殿近くの「カジノ・ドームマイヤー」であった。ヨハンは独自の楽団を作り、指揮者としてデビューした。1849年に父が死去すると、ヨハンはシュトラウス楽団を自分の楽団に吸収した。
ヨハンの音楽活動は国内には留まらなかった。1856年にはロシアの鉄道会社と契約し、夏のシーズンにパヴロフスクの駅舎で演奏会を指揮するようになった。報酬は1万8000銀ルーブル(オーストリア通貨で3万6000グルテン)とされた。ウィーンでは、宮廷舞踏会での指揮が9グルテン、楽譜の印税がワルツ1曲につき250グルテンだったので、ロシアの報酬は破格であった。
その後、契約金はさらに引き上げられ、1859年には2万銀ルーブルに、1865年には4万銀ルーブルになった。このコンサートは、1856年から10年間続けられた。ヨハンは1年のうちのほぼ半分を、ロシアで過ごす生活が10年間続けられたのである。
1872年6月17日、アメリカ独立100周年の祝典をかねた「世界平和記念祭」が、ボストンで開催された。ヨハンはこの祭典に指揮者として招かれた。報酬は当時としては破格の10万ドル。この音楽祭で演奏された『美しく青きドナウ』の指揮の際、10万人の観客のために、2万人の演奏者と歌手が集められ、100人の副指揮者が補助として配置されたという。このように、作曲と指揮に忙しい生活を続けていたが、1899年5月22日、マチネーで「こうもり」序曲を指揮中、寒気が起きた。6月3日彼は息を引き取った。肺炎だった。