8 北京の盛衰 北京警察博物館
20世紀初頭に使われた「シティバンク」北京支店の建物を利用した博物館。北京市東城区城区にあり、2001年7月から一般に公開。
博物館の展示エリアは2000平米。 コレクションは7000点以上(明代以降の中国国内外の警察関連コレクション)があり、1500点以上が展示されている。博物館には北京公安歴史ホールなど4つの展示ホールがある。ハイテク技術を生かし、音響、光、電気技術を導入して従来の表示方法とハイテクディスプレイを組み合わせて効果的に展示している。全国の公安の特徴や、模擬射撃訓練システム、交通状況と道路状況のリアルタイム表示がある。 入場無料で月曜休館。(資料「毎日頭条」2018.3.27)
7 北京の盛衰 北京同仁堂
「北京同仁堂」は、中国にある4つの伝統的な中国の薬局の1つ。 1669年(康熙8年)に楽顕揚によって設立され、1723年から皇帝医学に専念し、188年間に8人の皇帝を経てきた。同仁堂は創業から1954年の合弁事業まで、300年近く代々受け継がれてきた。 記録によると、楽顕揚の祖先は浙江省寧波で、明代の永楽時代に北京に移住したという。
同仁堂の名前は清朝第四代康熙帝(1654—1722)に関連している伝説がある。
康熙帝は奇妙な病気にかかり、宮殿の皇帝の医師は貴重な薬をすべて使ったがどれも効かない。ある日、康熙帝は一人で宮殿の夜の散歩に出かけ、通りに来て小さな薬局を見つけた。康熙帝が家に入った後、医者は康熙帝を診察して言った。「あなたはいつも、山や海の珍味を食べすぎが、かゆみとなった」。康熙帝は「病気は治るのか」と尋ねた。医師は「この薬を使えば良くなる」と言った。彼は瓶の中の薬を注ぎ、「これは「大黄」です。使い方は「大黄」を沸騰させて水槽に入れ、水温が適度になるのを待ってから、水槽に入って入浴すれば、癒すことができます。」
康熙帝は宮殿に戻り、医者の指示に従って入浴した。案の定、彼が浴槽に入るとすぐにさわやかで快適さを感じた。3回洗った後、全身がかゆくならず、赤い斑点が消えた。康熙帝はとても幸せで、4日目に再び小さな薬屋に行った。康熙帝は医師を宮殿に推薦したかったが、彼は庶民のために薬を調合してきたので、宮殿に入ることを望まず、立派な薬局を建てたいとは思っていた。康熙帝は躊躇なく「薬局を建てたいのなら、同仁堂という名前をどうか?」とペンを取り出し、手書きで書いて封をした。これは康熙帝の力によって「同仁堂」が建てられたという伝説である。(資料 「毎日頭条」2018.2.5)
6 北京の盛衰 紫光閣
中南海西側にある「紫光閣」は、国務院が外国人のゲストを接待するための重要な場所。 現在の「紫光閣」は、乾隆25年(1760)に再建されたときの外観とほぼ同じ。明代の正徳時代(1506 - 1521)に建てられたもので、正徳帝(せいとくてい1491-1521)が馬や矢を放った場所。建物の後には「武成殿」が建設され、廊下で紫光閣と接続され、囲まれた中庭がある。 乾隆帝(1711-1799)は、「紫光閣」の修理に細心の注意を払い、「紫光閣」の備品を慎重に手配した。1900年に八国連合軍が北京に侵攻し、侵略軍の本部が中南海に駐留した後、「紫光閣」の文物に被害があった。 (資料写真「毎日頭条2019.5.23)
5 北京の盛衰 北京協和医学院
「北京協和医学院」は、アメリカの富豪ロックフェラー家の海外慈善プロジェクトによって建てられた。 ロックフェラー財団はそのため、「中国医学財団」を設立し、1915年に20万米ドルを投資。1917年9月24日、北京市東城区に「民国6年」の文字が刻まれた礎石を築いた。
財団は当初150万米ドルを承認したが、実際の費用は750万米ドルに上昇した。
1921年9月19日、「北京協和医学院」の開校式が行われ、多くの人で賑わった。 この式典には、ジョン・ロックフェラー(1839 - 1937)も参列し、彼はスピーチの中で、「中国の人々に、医学だけでなく西洋の思考と精神文化の発展にも寄与できることを望んでいる」と述べた。
1951年1月、学校は中央人民政府の教育省と保健省に引き継がれ、「中国協和医学院」と改名された。 継承と発展の後、 2006年に「北京協和医学院」と名付けられた。(資料「毎日頭条」2017.3.23)