シュールの本棚

世界で日々起きていることは、現実を超えて進んでいる

1北京の盛衰 100年前の紫禁城(はじまり)

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  紫禁城に入る8カ国連合軍兵士 (写真「毎日頭条」2019.8.30)

1900年に起きた清朝末期の「義和団の乱」は、その勢いが北京へと展開し、6月10日、20万人の義和団が北京に入城した。
 義和団鎮圧のために軍を派遣したのは、欧米七カ国と日本である。総司令官にはイギリス人のアルフレッド・ガスリーが就任した。
 西太后は北京陥落前に紫禁城を脱出し、10月には西安に辿り着いた。
 清朝は宣戦布告し、北京在住の外国人925名と中国人クリスチャン3000名ほどの老若男女が紫禁城に逃げ込んだ。
6月19日に24時間以内の国外退去命令が伝えられ、翌日から攻撃が始まった。2か月間の籠城のにち、海外からの援軍の到着で8月14日連合軍が北京を占領する。

24 上海の盛衰 1862年の上海を見た日本人(終り)

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1862年の上海バンド(図版=virtualshanghai.net)

 1862年6月13日の朝、前マストにオランダ国旗、中央に米国旗、後部マストに日の丸を掲げた商船は、黄浦江を航海し上海港に停泊した。「千歳丸」と名付けられた358トンの商船は、長年封鎖政策を実施してきた徳川幕府が、中国に正式に派遣した最初の日本船であった。この船には長州藩高杉晋作が乗り、当時の上海を通して、世界の情勢を垣間見ることができた。千歳丸の最大の役割は上海での現地調査。当時は「太平天国の乱」(1851年 - 1864年)の最中で、上海でも避難民があふれ、餓死した人や散乱するゴミで、清朝も衰退の様相を呈していた。

 

23 上海の盛衰 上海の墓地の値段?

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上海嘉定区の「長安墓園」のホール

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長安墓園」の墓園道路(「長安墓園」HPより)

 1993年に上海市民事局と葬儀局によって承認された「長安墓地」は、松、ヒノキの木々や花に囲まれた大変に美しい霊園である。 広さは480エーカーあり、「上海一流墓地」と評価されている。
 15万柱の区画があり、竜、鳳凰、吉、祥、梅、蘭、竹、菊の8つの領域に分かれている。
 墓石の写真と墓地面積、価格が紹介されている「上海墓地」のホームページを見ると、「長安墓園」は、3平米で30万元から40万元、1.95平米で27万元のものが紹介されていた。(2021年2月現在、ちなみに1元は16.26円だから30万元は378万円となる)
 もっとも上海にある他の霊園も紹介されており、その一つ「上海海湾薗」では、「花壇葬」「植樹葬」を扱っており、4万元代からのものが見つかる。
上海墓地 http://www.shmudi.cn/index.asp

22上海の盛衰 上海ガニ

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カニを食べる少年(1945)

 何年も前に、カニを食べる写真がインターネットで人気があり、「1945年の上海の貧しい家族は陽澄湖(ようちょうこ)のカニを食べてほとんど生き残れなかった」と題された。この写真はアメリカの写真家Walter Arrufatのもので、 彼は第二次大戦中米海軍に勤務し、1945年10月から1946年2月まで上海に住んでいた。
 日本で上海カニと呼ばれている蟹は、中国では一般に毛ガニ(大闸蟹 dàzháxiè)として知られている。野生の毛ガニは揚子江河口の崇明島近くの海域に産卵し、上流の川や湖に移動して成長する。したがって毛ガニを上海カニと呼ぶのが普通です。上海虹橋空港から車でわずか30分の陽澄湖の毛ガニは有名で、近年は養殖が進んでいる。(出典「歴史頻道」2013.9)

 

21 上海の盛衰 上海ユダヤ難民記念館

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上海ユダヤ難民記念館

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記念館正面

 上海ユダヤ難民記念館(長陽路62号)は、新しく改装され、2020年12月8日から一般公開された。展示ホールの全体の面積は、1000平米から4000平米以上に拡大され、展示点数も150から1,000近くに増えた。
 展覧内容は「上海への脱出、避難生活、一体感、戦後での別れ、特別な友情、未来の共有」の6つのパートに分かれ、1,000近くの展示、12を超える情景再現、161の人物紹介がある。ユダヤ人が第二次大戦中に、ナチスから逃れた方法、上海虹口に来た方法、そして中国の人々との友好についての感動的な物語を知ることが出来る。(澎湃新聞 2021.1.28)
HP http://www.shhkjrm.com/node2/n4/n5/index.html

20 上海の盛衰 1947年の上海での戦争難民

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難民に食糧を配給する上海政府(1947年)

 日中戦争の勝利後まもなく、中国庶民は再び内戦の深淵に引きずり込まれた。 江蘇省北部からの多くの人々が避難し、戦争難民となった。 当時の記者の速報によると、1946年6月の内戦勃発後、その夏、江蘇省北部から300万人もの難民がおり、同期間に江蘇省北部から5万人以上の難民が上海に入った。 1947年までに、上海に亡命する難民はますます増えたが、救援機関は増えておらず、上海政府は望むことを行うことができなかった。また、この時期の上海の深刻な住宅不足により、難民には避難する場所がなかった。
(資料「澎湃新聞 2020.12.29」)

19 上海の盛衰 上海の宣伝画

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上海市第一百货商店」(1955)

 南京路にある「上海第一百貨店」は、1949年10月に正式に開業。前身は上海新大新公司中華人民共和国の建国後、初めての国営百貨店で、8階建2万1400平米の販売エリアがある。中央のエスカレーターは、中国最初の商業用エスカレーターでOTISブランドである。

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上海の外灘の祭り(1963)

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上海のにぎやかな南京路、右に「上海市第一百货商店」(1989)

資料「腾訊新聞」(2021.1.22)