21『日本の謎』砲術
謎21 砲術の開祖が生き残った理由
砲術は当時の最新兵器であった。 稲富流砲術の開祖 の稲富祐直(いなとみすけなお 1552-1611)は、丹後国田辺(京都府舞鶴市)で生まれた。
祖父・稲富直時は、鉄砲の秘術を習得した佐々木庄符次郎を招き、教えを子や孫の直家に伝えた。その孫であった祐直は砲術書を著し、稲富流砲術を提唱した。
天正10年(1582)に本能寺の変が起こると、祐直は旧主を滅ぼした細川忠興(ただおき)に仕え、師範となった。
慶長2年(1597)、慶長の役では、細川隊の一員として朝鮮に渡海。
慶長5年(1600)7月、関ヶ原の戦いが勃発した時、細川屋敷にいて、忠興の妻である細川ガラシャ夫人の警護役だった。石田三成が屋敷を包囲し、ガラシャ夫人を引き渡すように要求すると、祐直は裏門から飛び出して1人逃亡した。
戦後、細川忠興は逃げた祐直に激怒し、火炙りにすると考えていた。ところが、徳川家康は稲富流砲術の伝統が絶えるのを惜しみ、忠興を宥めて助命させたのである。