シュールの本棚

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20『日本の謎』遊女

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「長崎名所図会」より「遊女交替の図」着色

謎20 長崎の遊女の役割とは?

 長崎は御朱印船の発着港で、明国の商船は慶長15年(1610) に朱印が与えられた。慶長18年(1613)に、長崎に入港する外国船は120艘に及んだ。寛永16年(1639) 、天草の乱に懲りた家光は、鎖国令で長崎の南蛮館を閉ざし、ポルトガル人は退去させられた。長崎は明国商船のみの通商港となりさびれた。

 1644年に清朝が中国を統一すると、中国船の来航も急増した。中国産生糸がオランダ商人を圧倒し、長崎でも中国船の入港の方が多くなった。

花街は小島村にあり文禄(1593~1596) のころ、今の博多町古町桶屋町に開き、南蛮人などを対象に多くの遊女を抱えた。その後、寛永19年( 1642 )に官の命令で丸山に移され、元禄元年(1688) には十善寺隣に唐人屋敷を造った。広さ3万平米、複屋数十で、周囲を塀で囲んだ。唐人屋敷に出入りが許されていた遊女の出代りは5日ごとで、花街両町の客を定めて唐館に入る遊女らは、毎月この日に出入りを交換し、別店の女が替わりに入った。(資料 長崎史談会「長崎名所図会」1931 )