6「日本の謎」忠臣蔵
謎6 吉良上野介はなぜ斬られたのか?
忠臣蔵は、1701年4月21日、赤穂藩藩主浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、江戸城・松之廊下で、高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)を斬りつけたとして切腹に処せられた事件。
吉良上野介は当時、高家筆頭として幕府の礼儀一才を取扱う地位にあった。元禄14年2月4日勅使の前大納言、中納言などが下向にあたり、その接待役を命ぜられたのが浅野内匠頭と安達左京であった。
安達家の方は、吉良に相当の贈物をしたため、別段何事もなく役目を果たしたが、浅野家の方では遣いものを持参しなかったため、吉良が老中筆頭と同格にある自分の地位をないがしろにされたと憤慨したのも理解できる。
この話の3年前の2月にも京都より勅使の東上があり、この時に役目を担当したのが亀井隠岐守であった。彼も浅野内匠頭と同様の仕打ちを受けたので、上野介を斬りつけることを家老の角澤大学に打ち明けた。
家老はこれを聞いて、止める事はせず「明日は心置きなく上野介を打留めてくだされ、あとのことは引き受けます」と述べた。そのあと、大学は我が屋敷に帰ると金子300両と反物を取り揃え、吉良の屋敷に訪問し、上野介に指導料として持参したものを差し出した。翌日、亀井隠岐守が登城すると上野介がすり寄って来て、しきたりの大事なポイントを示して指導し始めた。これには隠岐守もどうする事も出来ず、無事に任務を終えて退出することができたのである。こうした家老がいたことが命を救ったといえる。(参考 中瀬勝太郎「徳川時代の賄賂秘史」1935)テキスト