4「日本の謎」比叡山焼き討ち
謎4 比叡山はなぜ焼かれたのか?
信長が比叡山を焼く理由ははっきりとしているので、そこに謎はない。
1571年9月12日信長は、比叡山焼き討ちを命じた。その理由は『信長公記』にも記されている。
「山本山下の僧衆、王城の鎮守たりといえども、行躰、行法、出家の作法にもかかわらず、天下の嘲弄をも恥じず、天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し、金銀まいないにふけり、浅井・朝倉をひきい、ほしいままに相働く」(『信長公記』)。
この戦いでの死者は、『信長公記』には数千人、ルイス・フロイスは約1500人と記している。
この戦いについて、しいて謎をあげれば、信仰心が今よりも深い時代に、たとえ理由があってもあのような仕打ちが出来たことである。信長は仏教を嫌っていた訳ではない。安土城下の浄厳院(浄土宗)で行われた浄土宗と法華宗の宗論で、法華宗は信長の弾圧により敗れたことにされ、処罰者を出した。しかし信長は特に法華宗を嫌っていた訳ではない。その証拠に彼が命を落とした本能寺は法華宗の本山なのだ。キリスト教に理解のあった信長が亡くなると、そのあとの実権を握った秀吉はキリスト教を禁止した。
その政策は徳川幕府も継続し、島原の乱(1637-38) では幕府軍の攻撃とその後の処刑によって、籠城した老若男女37,000人全員が死亡している。比叡山焼き討ちから67年後である。