シュールの本棚

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2 石油戦争 ソ連崩壊(1991年)

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ウィリアム・ケーシーCIA長官

オイルショックの始まり(1973年)
 1973年10月17日、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)が、第四次中東戦争イスラエルを支援した国への石油販売を停止した。この禁輸措置での月次生産削減により、1973年12月までにその生産高は3ヶ月前の4分の1にまで落ち込んだ。これにより、1974年の禁輸措置終了までに、石油価格は1バレル当たり3ドルから12ドルにハネ上がった。
 サウジアラビアは瞬く間に莫大な富を得た。ソ連は石油と天然ガスの採掘量を増やし、その収入は、国民所得の半分以上を占めるまでになった。

●米国がソ連に勝てた訳
 1973年のオイルショックで、米国その他の西側諸国は、新しい石油鉱床と原油採掘の技術改良を模索し始める。1979年、イランのイスラム革命により、イランの石油生産が大幅に減った。これにより、第2次オイルショックが始まり、世界の原油価格がさらに上昇した。しかし、1980年代の初めまでに、米国その他の生産国による共同の努力による過剰生産で、原油価格が下がり出した。
 1980年以降、原油価格は下落を続けた。こうした状況の下で、ソ連を含めてどの国も、原子力をはじめとする代替エネルギー開発に取り組み始めた。1986年、チェルノブイリ原発事故が発生し、ソ連の経済、国際的イメージ、エネルギー産業にブレーキをかけた。
 1986年、CIA長官のウィリアム・ケーシー(在位1981–87)がサウジアラビアを訪れ、ファハド国王(在位1982-2005)と、今後の行動について交渉した。過去6年間、サウジ政府は石油採掘を減らしてきた。しかし、ケーシーが帰国した後、サウジは価格がまだ低いにもかかわらず、その採掘量を急速に増やし始めた!

●価格暴落(1986年)
 4か月の間に、サウジの採掘量は日産200万バレルから5倍の1000万バレルに増え、価格は1バレル32ドルから約3分の1以下の10ドルに急落した。ソ連経済にとっては、石油価格の下落は致命的な打撃だった。1986年だけでも、ソ連は200億ドル(ソ連の歳入の約7.5%)以上を失い、早くも財政赤字を抱えていた。
 しかし、サウジ経済にとっても低価格は打撃なのに、なぜ彼らは急激な増産をあえてしたのか?
 ある説では、ケーシーがその措置と引き換えに、財政的補償を提案したという。この説は、1986年にサウジの石油の80%が、すべて米国のエクソンなどメジャー石油企業を通じて販売されたことでも裏付けられる。
 ソ連は、1985∼1986年の石油危機以降、不況に陥った。1986年、ソ連の対外債務は約300億ドルだったが、1989年までに500億ドルに達した。
  石油の増産は、米国がソ連との冷戦に勝つうえで大いに役立った。ソ連指導者のゴルバチョフは、経済不況により不人気な政策決定を下すよう強いられた。政府システム改革(ペレストロイカ)は、資金不足のために希望がもてなかった。その頃、ボリス・エリツィン(後のロシア連邦初代大統領)がソビエト・システム全般を厳しく批判し始め、1980年代末までにソ連の崩壊は、ほとんど不可避となっていた。(出典 ゲオルギー・マナエフ「ロシア・ビヨンド」2020年3月14日)