19 ユダヤ人の秘密 オーストリア・ナチ(終り)
1938年1月、オーストリアには約19万人のユダヤ人が住んでおり、そのほとんどが「ユダヤ人コミュニティ」(Kultusgemeinde)のメンバーだった。しかしこれらの3分の1は、1945年5月にもはや生きていなかった。
1938年3月12日、ドイツの第8軍がオーストリアに進軍して併合し、約80万人のオーストリア人がドイツ国防軍に徴兵され、さらに15万人が武装親衛隊に徴兵された。
1938年3月中旬、ナチスとその信奉者(オーストリアとドイツ)は、すべてのユダヤ人に対する脅迫と暴力とによって、オーストリアのユダヤ人の財産を乱暴で急速な接収を開始した。(claims conference)
●ドイツ人より悪かったオーストリア人
ポール・ジョンソンの『ユダヤ人の歴史』(現代篇)によると「特別機動隊でも、オーストリア人は顕著な役割を果たしている。親衛隊員からなる特別機動隊の3分の1が、オーストリア人によって占められていた。6つの絶滅収容所のうち、なんと4つでオーストリア人が所長をつとめたし、ユダヤ人犠牲者600万のほとんど半分は彼らが殺したのである。オーストリア人はドイツ人より激しい反ユダヤ主義者であった。」(文庫版167p)
●オーストリアの補償
「対応が最悪であったのは、オーストリアである。(中略)前述のとおりユダヤ人犠牲者のほとんど半数を殺したにもかかわらず、1943年11月にモスクワで発せられた連合国宣言は、オーストリアをヒトラーの野望の犠牲となった最初の自由国家と規定したのである。したがって戦後開催されたポツダム会談において、オーストリアへは賠償責任を課さない事が決まった。」(同204p)
しかし、いくつかの返還努力がなされ、1946年から1949年の間に、いくつかの財産返還法が可決され、ほとんどの場合、不動産の所有者は、接収されたか「アーリア化された」財産を取り戻すことができた。 これには「ユダヤ人コミュニティ」も積極的に参加した。(claims conference)