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7 ユダヤの秘密 バチカン

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ピウス十二世の沈黙

  キリスト教会の歴代教皇はさまざまな残酷な行為を行なってきたが、それはユダヤ人を改宗させようとしたのだった。しかし第二次大戦のナチスドイツによるユダヤ人絶滅作戦では、屈辱的な立場に追い込まれていた。ピーター・デ・ローザ著『教皇庁の闇の奥』(1993)に、その顛末が記されている。
 
 1939年に死んだピウス十一世は、ドイツの民族差別政策に反対し、反ファシスト回勅を書いたが、それは教皇の死により、公布されたことはなかった。その後継者はもっと用心深かった。枢機卿パッチエツリは1939年3月、ローマ教皇ピウス十二世(在位1939ー1958)に就任した。
 ムッソリーニユダヤ人社会に圧力を加えはじめると、ピウスはだんまりを決め込むという習慣をはじめた。1940年6月4日、イタリアはヒットラー陣営に参戦。1941年の終わりまでに、イタリアのユダヤ人の4分の3は、生計の途を絶たれていた。
 1943年の夏、ムッソリーニが失脚し、同年9月、ドイツ軍がローマを占領した。フィレンツェベネツィアフェラーラジェノヴァ、フィウメでは6週間以内に1万人のユダヤ人が検挙されてアウシュビッツに連行され、そのうちの757名が殺された。イタリア人はできるだけ多くのユダヤ人を助けようとした。
  教皇庁、各地域の教会、修道院に励まされて、あらゆる人びとが全力を尽くした。バチカンに逃れたユダヤ人もわずかながらいた。1943年12月、ユダヤ人はイタリアの市民権を剥奪された。一度に650人のローマ在住ユダヤ人が検挙されたことがあった。1944年3月には、アルデア洞窟で335人の囚人の中から、ユダヤ人70人が銃殺された。この数字は、レジスタンスの待伏せにあって殺害されたドイツ憲兵の人数にほぼ見あった数であるが、この報復処置では5人多くなっている。
 ロバート・カッツはその著書、『ローマでの死』でこう書いている。アルデア洞窟で死ぬ運命にある335人を救うのに、奇跡は必要なかった。少なくともドイツ人の虐殺行為を遅延させなかったことで、責任を取ることのできたただ一人の人間がいた。その人は教皇ピウス十二世である。教皇はローマのSS隊長から、ドイツ救世軍神父パンクラツィオを通じて、流血の惨事を引き起こされつつあることを知っていた。 
 1944年6月5日、連合軍がローマを開放し、ローマの恐怖は終わりを告げた。従軍牧師は、ピウス十二世のものを含め、大シナゴーグの扉の封印を剥した。ユダヤ人はふたたび自由になった。隠れ家から姿を現したユダヤ人が見たのは、2000人以上の同胞が失われたという事実だった。(ピーター・デ・ローザ著『教皇庁の闇の奥』リブロポート(1993)