シュールの本棚

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3 ユダヤの秘密 日本とユダヤ

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クラウド著「日本古代史の縮図」の扉

 ペリー提督が日本に到着し開港を開始したとき、ユダヤ人は日本に定住し始めた。1861年に横浜に到着したアレクサンダー•マークスは、現代日本の最初のユダヤ人居住者だった。その後まもなく、1865年から1867年頃まで外国人居留地の市議会の議長を務めたアメリカ人実業家ラファエル•ショイヤーが加わった。彼はまた、最初の外国語新聞の1つ「ジャパンエクスプレス」を発行した。1860年代の終わりまでに、横浜にはポーランド、米国、および英国から50人のユダヤ人の家族がいた。次の数十年の間に、ユダヤ人コミュニティは長崎に設立され、そこでは主に輸出入貿易に関与した。
  第一次大戦終結する前の10年間に、ユダヤ人の日本への移住が増加した。1905年のロシア革命、特に1917年のボルシェビキ革命により、多くのロシア人ユダヤ人がロシアから逃げ、満洲と中国に行ったが、日本に行った者もいた。
 アメリカによる日本占領(1945ー52)の間に、日本のユダヤ人の数は最高の数字に達し、マッカーサーの政権の一部の役人と多くのGIがユダヤ人だった。これら軍人の多くが帰国したとき、規模は約1000人で安定し、そのほとんどが東京と小浜島に住んでいた。
  1992年には約1000人のユダヤ人が日本に居住し、そのほとんどが首都圏に住んでいた。しかし、恒久的なユダヤ人の人口は200人未満であった。約60人は米国から、25人はイスラエルから、残りはユダヤ人の世界から来た。コミュニティ内には、ほんの一握りの日本人改宗者しかおらず、日本に住むユダヤ人のほとんどは、主要な企業、銀行、金融機 関を代表する駐在員である。

●「日ユ同祖論」のはじまり
 1870年代に宣教師として日本に来たスコットランド人のノーマン・マクラウドがいた。1875年に出版した「日本古代史の縮図 (Epitome of the Ancient History of Japan)」の序文で、彼は1867年に日本に到着し、そして彼は「日本人の起源のより詳細な説明と、ユダヤ人の所持品の説明をする」と、地元の新聞は1875年に報じた。日本人は「イスラエルの失われた十部族の子孫」とする彼の考えは、彼のいくつかの本に述べられた。
 このマクラウドのアイデアは、国際的な聴衆に届き、日本人の考え方に影響を与えた。日本で「日ユ同祖論」を提案した最初の一人は、1908年にネストリウス派キリスト教に関する学術研究の付録として彼の理論を発表した佐伯好郎(1871ー1965)である。佐伯はキリスト教の学者で、中国の秦氏は、五世紀に日本に到着し、京都の西で太秦(うずまさ)と呼ばれる村で発見された大陸集団であると信じていた。彼はこの命題に賛成して、さまざまな文献学的議論を提唱した。
(出典 ENCYCLOPAEDIA JUDAICA, Second Edition, Volume 11 Thomson Gale.2007)