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2 国際事件賠償 米潜水艦による「阿波丸」誤射事件 (1945)

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米海軍潜水艦クイーンフィッシュ号

 阿波丸は、日本郵船が所有する遠洋定期船だったが、戦争が始まると日本海軍に徴用された。1945年に赤十字の後援の下での救援船として航海中、米海軍潜水艦クイーンフィッシュ号に魚雷を撃ち込まれ、乗船していた2,004人のうち1人を除く全員が死亡した。

 1945年、阿波丸は赤十字の救援船として雇われ、日本とアメリカの間での捕虜救済協定の下で、船は連合軍によって安全な通過を与えられることになっており、連合国の司令官はその旨の命令を出した。

 阿波丸は物資を届けた後、シンガポールで数百人の立ち往生した商船士官、軍人、外交官、民間人を引き受けた。船は3月28日にシンガポールを出港したが、4月1日、台湾海峡で深夜にアメリカの潜水艦クイーンフィッシュ号に駆逐艦と間違えられ、魚雷3発が命中し沈没した。

 ロリ・ロックリン司令官は過失の罪で有罪となり、米国政府は中立のスイスを経由して阿波丸を同様の船に交換することを申し出た。

 日本政府は撃沈直後から戦時国際法違反として抗議した。アメリカ政府もこれを受け入れ責任を認めた上で、賠償問題については戦時であり直ちに交渉することは困難であるとし、終戦後に改めて交渉を行なうことを提案した。

 戦後になり日本側から阿波丸の代船を提供することや、6,150万ドルの賠償金を求める等の賠償請求が出され、アメリカ政府も当初はそれに応じる方針だったが、当時の司令官ダグラス・マッカーサーの反対により、アメリカ政府は、代案として当時アメリカが日本に対して行っていた有償食料援助の借款額を18億ドルから4億9千万ドルへ棒引きする代わりに、阿波丸の賠償請求権を放棄するよう求めた。アメリカ側の破格の提案に当時の日本政府もこれを了承し、1949年(昭和24年)に日本の国会は、阿波丸への賠償請求権を放棄し、日本政府がアメリカに代わって賠償を行う旨を決定した。(日文ウィキ)

  1950年(昭和25年)、「阿波丸事件の見舞金に関する法律」(昭和25年8月施行)が成立し、死亡者1人あたり7万円の見舞金を遺族へ支給、また日本郵船には1784万円が支給されることが規定された。当時占領軍は、戦争犠牲者への救援措置を禁止していたので、この支払いは異例だった。(国際関係法辞典/国際法学会編)

 1980年、中華人民共和国は、歴史上最大の救助活動を開始した。彼らは1977年に難破現場の特定に成功し、この船は数十億の金と宝石を運んでいると確信されていた。約5年と1億ドルがその努力に費やされた後、宝物は見つからず、捜索は最終的に打ち切られた。しかしいくつかの個人的な遺物が日本に返還された。 (英文ウィキ)