シュールの本棚

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15 モスクワの盛衰 アフガニスタン侵攻(1979)

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グレゴリー・ファイファー著「偉大なるギャンブル」(2008)

 アフガニスタンの反政府組織や義勇兵ソ連軍の間で発生した戦闘は、1979年の出兵から1989年の完全撤収まで約10年に及んだ。
長期化した戦争で、ソ連側は1万4000人以上が戦死、アフガン側はその数倍の戦死者を出す結果となり、ソ連の「ベトナム戦争」と言われた。
  ほとんどのアメリカ人は、ソビエトアフガニスタン侵攻を、冷酷な全体主義国家による侵略行為と見なしていが、現実ははるかに複雑だった。
  アフガン共産党政権の近代化プログラムに抗議する地方住民の反乱。これを鎮圧するための軍隊派遣要請を、ソビエトの指導者たちは1年以上拒否してきた。しかしモスクワが侵攻を決断したあと、それ自体が紛争、本質的には内戦に巻き込まれていることに気づき、対抗策が不透明になった。アフガニスタンソビエト崩壊を引き起こしたとは言えないが、アフガニスタンの遠隔地にいる一握りのパルチザンにも対処できない帝国のイメージが作られた。
●侵攻の結果
 アフガニスタンの内戦の背景にある冷戦が、モスクワが介入したもう一つの要因だった。アメリカはソ連アフガニスタンへの侵略を非難したが、アメリカも1979年のイランのシャーの崩壊後に、アメリカの影響力の拡大化の危険があった。ソビエトの指導者たちはまた、中央アジアでのイスラム教徒の反共活動の拡大の可能性を恐れていた。
 友好的な政権を支持するための侵略は、アフガニスタンでのソ連の影響力を高めるだけでなく、モスクワが依然として重要な世界大国であるというメッセージを世界に送ることができる。
 しかし実際の結果は反対に出た。赤軍はどれほど友好的であると宣言した結果が、侵略者を拒否する人々との残忍な闘争になるとは予見できなかった。
 ブレジネフ政権の賭けは、壊滅的な結果をもたらした。この戦争による死者の公式の数字は約1万5,000人だが、実際の数はおそらく多くの退役軍人が引用した7万5,000人にもなると考えられている。一方、アフガニスタンの死者は125万人、つまり人口の9%で、さらに4分の3が負傷した。
●結論
 言うまでもなく、この複雑な紛争での最悪の結果に苦しんだのは地上の兵士である。アフガニスタンでの冷戦下の代理戦争が、世界的なイスラムテロの繁殖をどのように育んだかについての光を投げかけている。それはまた、米国や他の西側諸国が、何をしなければならないかを示唆している。(出典 GREGORY FEIFER, Great Gamble - The Soviet War in Afghanistan, Harper Collins(2008) 序文の趣旨より)