シュールの本棚

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4モスクワの盛衰 スターリンの農地改革

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スターリンの自然改造計画(kp-tts.ru)

 レーニンの死後5年目の1929年、ソヴェト・ロシアは、スターリンの下で第二次革命に乗り出した。この革命による国民生活の影響と規模は、第一次革命よりさらに徹底的に実施された結果、ロシアは急速に工業化された。しかしこの政策は、短期間に一億人以上の農民に、農地を放棄して集団農場をつくることを強制するものだった。G・ボルトリ『スターリンの死』のなかで、次のようにまとめている。
●改革の結果
 1929年スターリンは、土地の集団化の強行を命じた。その結果、4年後に私有耕作地と称するものは悉く消滅した。(…)それから20年後の1952年においても、このスターリンの農業条例は依然として緩められなかった。  しかし農民たちは、これが恐怖と血で強制されたものであることを見て来た。当時、警察、軍隊、そのほか権力の支配下にあるすべての力が、農村に向って放たれたことを見て来た。多くの者が銃殺され、機銃掃射を浴せられ、斬殺され、吊るされ、水死させられたことを見て来た。
 家族ごと、村ごと、何百万人もの農民が流刑地に送られ、再び帰って来たのはきわめてわずかだった。「富農」は敵だとされた。しかし富農だけでなく、政府に犯行した中農も、貧農さえもがやられた。
●弾圧の統計学
 スターリンは1933年春、いまや目的は達せられ、仁慈を施すべき時がきたと宣言した。彼とモロトフが署名した秘密指令で、スターリンは次のように述べている。
「われわれは農村で成功をおさめたので、もはや大量弾圧を行う必要はなくなった」
 彼は「不法な逮捕」を止めるように命じた。シベリアへの強制移住については、ウクライナから2000家族、北カフカス1000家族、ヴォルガ中流地区1000家族などと一定の枠を設け、これを越えてはならないと命じた。また、現在の囚人数80万人を40万人に減らし、監獄の過密状態を緩和するように命令じた。彼は監獄での発疹チフス対策についてさえも、指示を与えている。
 しかし弾圧が終った途端に、たちまち飢饉が起った。1933年の春、ウクライナでは何千何万人もの農民が餓死した。軍隊が動員され、収穫を行い、家の消毒を実施した。
 ソ連政府当局筋によれば、死亡ないし流刑に処せられた「富農」は約500万人と推計されている。しかしスターリンは、チャーチルとのある夜の閑談で、「集団化にさいしては1000万の敵を相手にたかった」と語っている。
●復讐
 当然のことながら、これらは農民の心に深い怨恨をうえつけた。1941年にドイツ軍がウクライナに侵攻すると、この恨みが爆発して、農民の恐るべき復讐心をかりたてたのであった。進駐ドイツ軍の強力な協力者となったのは、30年代の初めに犠牲となった「富農」や「準富農」の家族たちだった。(78P)(出典 G・ボルトリ『スターリンの死』早川文庫1979年 )