シュールの本棚

世界で日々起きていることは、現実を超えて進んでいる

6ソウルの盛衰 朝鮮戦争/ソウル避難時の悲劇

f:id:danbuer:20210411181953j:plain

漢江(ハンガン)人道橋爆破の写真

 1950年6月25日、北朝鮮が38度戦を越えて韓国を攻撃し、韓国軍は後退を続けていた。6月27日深夜1時、非常国務会議で、政府の水原移転が決定された。この後、深夜国会において、「国会議員は百万のソウル市民とともに首都を死守する」との決議がなされた。
 6月27日午前、李承晩大統領はソウルより退避。午前6時、政府がソウルから南35キロにあたる「水原(スウォン)への遷都」を発表したため、ソウル市民は首都の危機を知り、避難路を求める市民が漢江の人道橋付近やソウル駅に殺到し、市内は混乱をきわめた。
 6月28日午前1時、彌阿里(ミアリ)での、ソウル防衛線が崩壊した。午前1時45分、北朝鮮軍戦車が市内に突入したとの報を受け、蔡参謀総長はただちに漢江に架かっていた漢江橋の爆破を命令した。しかし漢江北岸は避難民や将兵によって大混乱に陥っており、道路の通行は極めて困難であった。
爆破指揮所では、参謀総長の爆破命令を受け、6月28日午前2時過ぎ、陸軍本部工兵監は爆破命令を下した。この時、橋梁では陸軍憲兵と警察が後退する車両の運行を統制できなかった。午前2時30分には、約4000名の避難民が漢江人道橋を渡っていた。
 点火信号と同時に、人道橋、続いて3本の鉄道橋(漢江鉄橋)が爆破された。統制が不十分で、爆破時には橋梁上には4000人の避難民と車両があった。この爆破によって約500-800名の避難民が犠牲となった。また、40余両の車両が大破し、多くの人員が負傷した。韓国軍主力部隊は退路を遮断され、これらを支援していた1,318両の車両や装備品、補給品が北朝鮮軍の手中に落ちた。しかし京釜線の複線鉄橋と京仁線の単線鉄橋が完全に破壊されず、のちに北朝鮮軍戦車の漢江渡河を可能にした。朝鮮人民軍が漢江人道橋に到着したのは、爆破から6時間後であった。
 3年間に及ぶ戦争は朝鮮半島全土を荒廃させた。1953年7月27日に国連軍と中朝連合軍は、「休戦協定」に署名し休戦に至った。(資料ウィキペディア