9 北京の盛衰 「北京第一監獄」
1903年、清朝政府は刑務所システムを改善するための新しい措置を承認し、「京師模範監獄」を建設(現清芷園⼩区)した。刑務所の場所は南城の沼地「南下洼」の沼地が選ばれた。刑務所の建物は、日本の刑務所科学者の小川茂博士が設計した。刑務所の建物の中央には円形の展望台があり、扇形に広がっていた5つの刑務所エリアを監視した。空から見ると、頭と足が伸びた亀のように見えるので、通称「王八楼」 と呼ばれた。
1912年までに中華民国政府が引き継ぎ、1914年に名称を「京師模範監獄」から「北京監獄」に変更し、囚人の受け入れを開始した。それとともに清朝後期の刑務所改革が続き、さまざまな種類の新しい刑務所が建設された。統計によると、1926年までに中国国内に建設された新しい刑務所は63カ所のみで、残りはまだ古い刑務所だった。建設から管理までの技術を持つ北京第一監獄は、全国の刑務所管理者が資格を取得するための実習場となっており、 ここから全国の刑務所で働く300人以上の刑務官が学んだ。
ここに収監されていた囚人には川島芳子(本名愛新覺羅顯㺭1907 - 1948)がいた。彼女は1945年10月に北京で中国国民党軍に逮捕され、1948年3月25日に北京第一監獄の西の空地で銃殺刑に処された。 ( 出典「北京晚報」 2013.6.24)