9「仏教の秘密」高野山討伐
秘密9 高野山を救った上人
1571年に比叡山延暦寺の焼き討ちにあってから10年後の1581年、今度は高野山が13万人の兵に囲まれていた。以下は高野山が救われるまでのストーリー。
●高野山討伐(1581年)
高野山においても根来山においても、僧侶の外に行人が自衛上僧兵となった。高野山では入口7か所に関所を設け、聖地を保護した。1580年3月、信長に反逆した荒木村重の臣、池田三郎等が高野山に逃げ込んだ。そこで信長は7月それを捕えようとしたが、山の衆徒は彼らを渡さなかった。そのため8月に堺奉行をつかわし山上を捜索させた。それに山徒は憤激し彼等32人を殺害した。これに信長は激怒し、諸国に俳廻する聖(ひじり)や高野山の僧侶1383人を捕え、京都の七条磧など3ヶ所で殺戮し、翌年9月には、更に13万7000余りの大軍を送って高野山の七口を閉塞し、高野山を包囲攻撃した。これに対し山徒はよく防ぎ、一年有余後もこれを占拠できず、1582年6月、信長が本能寺で弑せられ、高野討伐は水泡に帰した。
●根来山討伐(1585年)
信長の没後、家康と秀吉とが覇を争うようになると、家康は根来及び雑賀、太田の諸党に使って秀吉を攻めようとした。秀吉はこれを耳にし、秀吉の帰依僧たる高野山の僧、木食応其(もくじきおうご1536- 1608、木喰上人は別人)を使いとして、服従をさとしたが、行人等はこれに応ぜず、かつ木食上人の宿所を襲撃した。ここで秀吉は一気に根来山を包囲してこれを陥いれ、円明寺、密厳院等の院宇堂舎2700有余をことごとくを焼き払った。天正13(1585) 年3月、根来を滅した秀吉は、その勢いに乗じて高野山をも征服せんとし、4月7日3ケ条の案文を示してその諾否を迫った。そして今回は木食上人に説得されて帰順し事なきを得た。出典 栂尾祥雲著「秘密仏教史」高野山大学 昭和8年