7「仏教の秘密」無我
秘密7 なぜ仏教では「無我」というのか?
仏教では「無我」といい、「我」は存在しないという。では輪廻するのは何であろう。現世では我があり、来世でも我があるのになぜ仏教では「無我」というのだろう。その答えは、釈迦の入滅を説いた「大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)」にあった。
またこの経典では、「一切衆生 悉有仏性(いっさいしゅじょう しつうぶっしょう)」の理由も説いている。
●我と無我
釈尊は弟子の迦葉(かしょう)に告げて、「私が無我と言ったのは、真我を知らせるためである。(我を抑え)無我によって始めて真我が開顕されるからである。無我と真我は離れず、互いに助けて一の真理を語るのである。」
●すべての生物に仏性はある(一切衆生悉有仏性)のか?
仏と仏性(ぶっしょう)とは理論上、差別はない。しかし実際には生物は必ずしも仏性を顕現しない。成仏する素質があれば「一切の生物には悉く仏性がある」と言ってもよいだろう。しかし、元来「有る」と言うことには、未来有と現在有と過去有とがある。
一切の生物は未来に無上の仏道を体得する可能性があるので、これを仏性と名づけるが、現在は煩悩にとらわれて智徳をまだ具えていない。
過去に煩悩を克服した者には、現在に仏性が見られるのである。この理にもとづいて、わたしは常に「一切の生物には皆仏性がある、一闡提(せんだい=快楽主義者)にもまた仏性がある」と宣言するのである。