18『日本の謎』 耳塚
謎18 なぜ、耳塚と呼ばれるのか?
旧京都大仏殿前の古塚は、秀吉の「征韓の役」(1592-1598) のときに敵の首の替わりに取った耳を供養した塚と言われる。しかしこれは「耳塚」でなく「鼻塚」であるとの説がある。以下は明治22年6月に東京地学協会での講演での説。(資料=地学叢説第2集)
それによると、「征韓の役」は7年間におよび、前を「文禄の役」、あとを「慶長の役」と呼んでいる。さて「文禄の役」では、侵攻のために敵の首級(くび)を取る事はせず、注文のあったものだけを取っていた。
後役では和平条約のための進駐であったため、進軍はわずか全羅一道に限られ、塚のなかの鼻は実に一時期、一地方のものという。(以下誰が何人敵を切り、鼻をそいだかについてはこれは略す。)その鼻をそいで一樽1000を納め、これを塩漬けにして6樽を本国に送るとある。そして合計は文書旧記によると2万3866という。それでも曖昧な数字は除くとあるから、実際は5万は下らないという。
慶長2年(1597)この鼻は今は亡き京都大仏の門前に埋め、9月28日五山僧侶400人を会し大施餓鬼を執行した。ただこの時、大仏は前年の地震で倒壊したため撤去され、善光寺如来を甲州から取り寄せて安置したという。そして当時の記録はすべて「鼻塚」となっている。しかるに儒学者の林羅山(1583-1657)が、「秀吉譜」(1642)のなかではじめて「耳塚」という名称を用い、それ以来の名称となっている。