16『日本の謎』 廃仏毀釈
謎16 僧侶一揆はなぜ起きたか
「徳川慶喜が大政奉還するや否や、慶応3年11月に早くも神祇官が復興されている。
神祇官は明治元年3月に、仏教も外国伝来のもので、本邦固有の道でないと訓令し、一方ではキリシタン禁制をそのままに迫害を加えた。この迫害は外人から反発されて、新政府は大味噌をつけたが、今更のように仏教を外国伝来といった真意は、キリシタン同様に取り扱うべきものであるという底意にあって、それが廃仏毀釈の理由なのだ。
本居宣長というよりも平田篤胤(あつたね)の弁論の余勢は、坊主退治に及んでいる。即ち神仏混合の禁止というので、大小の神社の社僧又は別当と称する僧侶の帰俗を命じた」(三田村玄龍『芝と東京浅草』春陽堂1925)
明治新政府による廃仏毀釈に対して、仏教の僧侶・信者の間でこれに抵抗する動きが各地で発生した。多くは真宗大谷派の僧侶・門徒が関係していた。その一つが、三河護法会の僧侶らが役人と直談判するために役場に向かい、騒ぎを聞きつけた門徒の農民たちも加わり大集団となって会見場に出向き暴徒化し、藩の役人を殺害する事態に発展した。そのため武装した役人に鎮圧され、僧侶・門徒ら数百人が逮捕されたのである。