シュールの本棚

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12 『日本の謎』 天草の乱

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キリスト教徒への弾圧 「日本に関する東インド会社の記録」(1669年)より着色

謎12 島原の乱の死者?

 

寛永14年(1637)から翌年にかけて、島原半島南部(現長崎県)で起こった一揆は、島原藩松倉勝家(1597-1638死因=斬首刑) の年貢取り立てが厳しく、またキリシタンの棄教を拒む者に対する仕打ちが苛烈を極めたことが原因という。これに飢饉が重なり、ついに領民が代官を殺害し、これに呼応して島原半島各地で次々に領民が蜂起した。一揆の終盤の主戦場は、廃城の原城で、おもに島原半島南部及び天草地方の領民あわせて約3万7千人が立て籠もった。一方、幕府連合軍12万の軍勢が鎮圧にあたった。幕府軍の攻撃とその後の処刑により、最終的に籠城した老若男女全員が死亡した。

「およそ3ヶ月に及ぶ籠城戦の末、原城が落城。生け捕りになった老幼2500人、討取った首1万6000という。また生け捕りの女子供2千余人、所々の生け捕り2千余人、残らず死罪は不便の事から、改宗すれば助けるとし、キリストの像を地に置き、刑場の裏に広く埒(らち=柵の事)を結びその中に穴を堀り、改宗して像を踏んだ者は助けるが、踏まぬ者は切ると告知する。しかし3千人の女子供、一人も踏む者なく、ことごとく切られる」(「南島変乱記」28章)