シュールの本棚

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29 大富豪の世界 フォード2世の絵画オークション

520万ドルで売れたゴッホの「アルルの詩人の庭」

 1960年から1980年まで取締役会会長を務めたヘンリー・フォード2世(1917-1987)は、3度結婚している。2人目の妻はマリア・クリスティーナ・ヴェットーレ(1929 - 2008)とは、1965年にニューヨークで結婚し1980年に離婚した。
 フォードが彼のコレクションを売却した理由は、クリスティーナとの離婚であると考えられている。当時の彼の妻クリスティーナは、離婚に当たって1000万ドルから1500万ドルを求めていたが、その費用の捻出と関係があると憶測された。
 フォード2世は、1980年5月13日にクリスティーズ・ニューヨークで、彼の所蔵する名画をオークションにかけた。フォード2世がサザビーではなく、クリスティーズを通して売ったのは、クリスティーズの社長デービッド・バサーストがいたためだという。
 彼が競売にかけた絵の中で、ゴッホが描いた「アルルの詩人の庭」の絵は、1980年5月13日にクリスティーズ・ニューヨークで520万ドルの値がつき、米国のオークションでこれまでの最高額の絵画となった。
 
●10点のコレクション
 5月13日午後8時10分、ロット一番、ブーダンによる「浜辺にて」が第4競売室を埋めた1300人の客の前に掲げられた。
 問題の10点はロット順に、(1)1867年に描かれたウジェーヌ・ブーダンによる「浜辺にて」は48万ドル。(2)エドゥアール・マネによる「乗馬のギョーダン」は65万ドル。(3)ポール・セザンヌの「青衣の農夫」で390万ドルでキャンベル美術館に落ちた。(4)1876年にルノワールが描いた花の咲く風景「温室」は120万ドル、(5)ゴッホの「アルルの詩人の庭」は、ゴーギャンの部屋の装飾として彼が描いた4つのうちの1つ。(6)ゴーギャン、「プルドゥのビーチ」は、日本の影響を示し、1889年にブルターニュの海岸で作られた海景で、290万ドルをもたらした。(7)1888年にアルルで制作された2番目のゴッホ「公園」は、190万ドルをもたらしました(8)エドガー・ドガの「裸婦習作」は90万ドル。(9)1906年ピカソの「女の頭部」は60万ドル、そして(10)モディリアーニの「座る裸婦」は60万ドルだった。
 フォードの販売全体は30分もかからなかった。総合計は実に2550万ドルに達した。

(出典 ジョン・ハーバート『クリスティーズの内幕』早川書房1995、「washingtonpost」1980.5.14)

28大富豪の世界 タバコ王の11歳の相続人

ドリス・デュークと最初の夫ジェームズ・クロムウェル

 大変裕福なタバコ王ジェームズ・デューク(1856-1925)は、約1億ドル(2020年の価値換算で14億8,000万ドル相当)の遺産を残した。その残りの多くが、当時11歳のドリス・デューク(1912-1993)に渡り、彼女は「世界で最も裕福な少女」となった。
 彼女はそのお金で、全地球的な旅行と広範囲な関心事の生活に資金を提供することができた。それらは、ジャーナリズム、サーフィン競技、ジャズ・ピアノ、野生生物保護、東洋美術およびハーレ・クリシュナにわたる。
 彼女の事業の大部分は、ニュー・ジャージーの父の地所に集中したが、そこに彼女は、世界旅行で獲得した工芸品を供給され、精巧な主題の庭園を多数造ったが、そのなかにはアメリカ最大の屋内植物展示をふくまれる。

●2度の結婚
 ドリスは2回結婚した。1度目は1935年にジェームズ・クロムウェルとで、彼は妻と同様にニュー・ディールの擁護者で、政治生活の資金に彼女の財産を使用した。夫婦には娘アーデンがいたが、生後わずか1日で死亡した。ふたりは1943年に離婚した。
 ドリスは1947年9月、ドミニカ共和国の外交官で悪名高い女たらしのポルフィリオ・ルビロサの3人目の妻となった。彼女は、争いの無い離婚に同意するために、彼の妻のフランス女優ダニエル・ダリュー(1917-2017)に100万ドルを支払った。結婚期間中、彼女はルビロサに、贈り物として幾百万ドルも与えたし、そのなかには、ポロ・ポニーの複数の伯舎、複数のスポーツ・カー、改造したB-25爆撃機1機、そして離婚財産処理合意ではパリの17世紀の家屋も含まれる。

●慈善事業
 ドリスの慈善事業は老年まで続いたが、その一部は、彼女の生前には公衆には知られなかったし、彼女の13億ドルと見積もられる財産は大部分、慈善のために残された。
 受託者と遺言執行者による多くの異議申し立てののち、デュークの遺産は今は、ドリス・デューク慈善財団によって管理され、医学研究、児童動物虐待防止、舞台芸術、野生生物 および生態学に献納されている。

●信託と遺言書問題
 ドリスは、父ジェームズ・デュークによって作られた信託の終身受益者であった。
  1988年、75歳のドリスは、チャンディ・ヘフナーという女性を法律上の養子縁組をした。彼女は35歳のハーレ・クリシュナの熱烈な帰依者で、億万長者ネルソン・ペルツの3人目の妻の姉妹であった。 
 ドリスは、ヘフナーは、生後わずか1日で死亡したアーデンの生まれ変わりであると主張した。やがてこの2人の女性は仲違いし、彼女は遺言書の最終版に、ヘフナーが彼女の父の信託からの利益を得ることを望まないと明記した。そして彼女は養子縁組を無効にした。(資料 英語版ウィキペディア

27大富豪の世界 富豪の浪費

フェリックス・デニス

 2006年に、フェリックス・デニス(1947ー2014)は『金持ちになる方法(How to get Rich)』で、彼がどのようにして数百万長者になったのかについてベストセラーを書いた。
 フェリックスは、10代の若者がブルー ス・リーの映画を待ち行列に入れていることに気づき、ブルース・リーの死後「カンフー王 」(1974)を書いてベストセラーに。1979年、フェリックスは、コンピューターの人気が急増するのを観察し、ヨーロッパ初の家庭用コンピューター雑誌「PC World」を10万ポンド未満で購入した。3年後、彼はそれを300万ポンドで売った。「Mac User」は、1985年に英国で発売され、米国でも発売され、2年後に2,000万ドル近くで販売された。その分派である米国のメールオーダー・サプライヤーMac Warehouseが1992年に公開されたとき、デニスと彼のアメリカのパートナーの両方に数百万ドルの財産をもたらした。

●デニスの金の使い方
「私は優れた散文作家ではないが、私はたくさんの本を読み、たくさんの生活を送り、たくさんの時間を費やした。何億ドルものお金が、私の漏れた指から、一般経済やさまざまな貿易や職業、慈善団体の手に渡った。
 ワインと麻薬の業者は、何年にもわたって非常に儲けた。不動産業者、本屋、若い女性、そして英国の高級自動車メーカーもそうだった。
 私はセックスやドラッグ、ロックンロールで多くの地獄を体験した。
しかし、娼婦もワインとウイスキーの供給者も生計を続ける必要がある。(ちょっと真面目な話だが、私が人生で出会った最も賢くて素敵な人は娼婦だった。しかし、私の知った数百人のうち、金持ちになったのはそのうちの1人だけだった。サウジ王子は彼女をナイトクラブを捧げたが、彼女は100万人に1人だろう。娼婦は、金持ちになるための特に危険で効果のない方法だ。)
 ワイン商人に関しては、私は慎重に数えてきた。私の考えでは、過去20年間で79万ポンド相当のフランスワインを購入した。私が百万ポンドに達したとき、私は提供されたサービスのためにレジオンドヌール勲章を申請している。
 弁護士、彼らは常にうまくやっている。そして会計士や税理士。慈善団体は非常にうまくやっている。農民たちは、彼らがもはや必要としない何千エーカーもの土地を私に売った。そして、銀行にもかなりのペニーを注ぎ込んだ。そして美術商。そしてペルシャ絨毯のディーラー。そして建築家。そしてレストランのオーナーなどなど。」(18章「金持ちを持続させる方法」より)(資料 Felix Dennis How to Get Rich 2009)

26大富豪の世界 遺産相続したセレブキッズ

ロビン・ウィリアムズと娘のゼルダ

 裕福な有名人たちは、彼らの財産を彼らの子供達に残した。以下はその中の9人である。

1.ゼルダ・ウィリアムズ(父ロビン・ウィリアムズ
純資産: 200万ドル
 アメリカの俳優でコメディアンのロビン・ウィリアムズ(1951 - 2014)は、8月11日に自殺した。彼の財産は1億ドル以上の価値があり、彼には2度の結婚で3人の子供がいた。2011年に3度目の妻スーザンと結婚。遺産をめぐり妻スーザンと3人の子供たちの間で法廷闘争が起こった。論争の結果、スーザンは請願書を取り下げ、ロビンの子供たちが彼の財産の大部分を受け取ることを許可した。

2.ブランドン・リー(父ブルース・リー
純資産: 500万ドル
 米国生まれの中国武術ブルース・リー(1940 - 1973)は、7月20日に脳浮腫で亡くなった。彼の財産は1,000万ドルと推定され、2人の子供である長男ブランドンとシャノンにそれぞれ25%を残した。
 ブランドンは父親の跡を継いで、武道と演技に生活を捧げた。悲劇的なことに、彼が28歳の時、映画『クロウ/飛翔伝説』の撮影中の事故で死亡した。シャノン・リーは現在、父親の財産を管理している。

3.ビリー・ラード(母キャリー・フィッシャー
純資産: 2000万ドル
 女優のデビー・レイノルズの娘で女優のキャリーフィッシャー(1956 - 2016)は、心臓発作を起こした後、12月27日に亡くなった。彼女は680万ドルの動産を含む財産を、唯一の子供ビリー・ラードに残した。フィッシャーはまた1800万ドルの家を残した。ラードは母親と一緒に「スターウォーズ・最後のジェダイ」(2017)に出演している。

4.ダンカン・ジョーンズ(父デヴィッド・ボウイ
純資産: 2000万ドル
イギリス生まれのロックミュージシャン、デヴィッド・ボウイ(1947-2016)は1月10日に癌で亡くなった。彼の財産は約1億ドルと評価され、彼はその25%を彼の子供たち、ダンカン・ジョーンズアレクサンドリア・ジョーンズのそれぞれに均等に分割することを選択した。

5.ジュリアン・レノンショーン・レノン(父ジョン・レノン
純資産: 2億4000万ドル
 元ビートルズジョン・レノン(1940 - 1980)が、12月8日ニューヨーク市のアパートの前で銃撃を受け死亡した。
 ジョン・レノンには、元妻シンシアとの子ジュリアン・レノンと、オノ・ヨーコとの間に生まれた次男ショーンの2人の息子がいた。オノ・ヨーコは約2億8000万ドルの相続を受けた。子のショーン・レノンの純資産の多くは、ジョン・レノンの相続によるものと思われるが、俳優やミュージシャンとしての彼の仕事によるものもある。
 当初、ジュリアンは父親の財産からお金をもらわなかったが、1996年にオノ・ヨーコが彼に約2800万ドルを与えることに最終的に同意した。

6.リサ・マリー・プレスリー(父エルビス・プレスリー
純資産: 5000万ドル
 ロッカーのエルビス・プレスリー(1935-1977)は8月16日に心臓発作で亡くなった。彼は財産を一人娘のリサマリー・プレスリーに残した。彼の死の時、彼の財産はわずか500万ドルに落ちていたが、リサマリーの母親、そしてエルビスの元妻プリシラプレスリーが遺族らが、膨大なプレスリーの物的財産を管理する組織を結成、肖像権も管理しようと訴訟を起こした。遺族らは勝訴し、肖像権を手に入れ、以後しっかりと管理されている。

7.パリス・ジャクソン(父マイケル・ジャクソン
純資産: 1億ドル
 人類史上最も成功したエンターテイナー、マイケル・ジャクソン(1958-2009)は、6月25日に麻酔薬の過剰摂取で亡くなった。彼の遺言は、現在および将来の経済的利益マイケル・ジャクソン・ファミリートラストに置き、20%を慈善団体に分配し、残りを母親と3人子供たち、長女パリス、長男プリンス、ブランケットに分配するよう指示した。
彼が亡くなったとき、ジャクソンは約5億ドルの借金を抱えていたが、彼の財産は2015年までに約20億ドルの収益を上げた。TMZの報告によると、これは子供1人あたり約1億ドルの相続に相当する。

8.キャロライン・ケネディ(母ジャクリーン・ケネディ・オナシス)
純資産: 2億5000万ドル
 元ファーストレディーのジャクリーン・ケネディ・オナシス(1929-1994)は、5月19日に癌で亡くなった。彼女は推定4370万ドルの財産の大部分を2人の子供、長女キャロライン・ケネディ(1957生)と長男ジョン・F・ケネディ・ジュニア(1960-1999)に残した。
 彼女の兄が1999年に飛行機墜落事故で亡くなったとき、キャロラインは、彼らの母親の相続の彼の部分を受け取った。

9.ボビー・クリスティーナ・ブラウン(母ホイットニー・ヒューストン
純資産: 2000万ドル
 歌手のホイットニー・ヒューストン(1963-2012)は、2月11日カリフォルニア州ビバリーヒルズのビバリーヒルトンにあるホテルの部屋の浴槽で誤って溺死した。TMZによると、彼女の一人っ子で、当時19歳だった娘のボビー・クリスティーナ・ブラウンは、母親の2,000万ドルの財産全体を相続した。
悲劇的なことに、ボビー・クリスティーナ・ブラウンは、彼女が自宅の浴槽で無反応であることが判明した後、昏睡状態でほぼ6か月後、2015年7月26日に22歳で亡くなった。
(出典 finance-yahoo-com 2019年8月9日)

25大富豪の世界 移住するミリオネア

                           図版 worldbank.org

 2022年を通じて、8万8,000人のミリオネアが、新しい国に移り住むと予測される(ヘンリー・グローバルシチズンズ・レポートによる)。これらの純資産100万米ドルを超えぅ金持ちは、どこから来てどの国に移動ていくのか?
 2020年には、パンデミックによって引き起こされた封鎖により、人々が母国を離れられなくなったため、百万長者の移民の数は大幅に減少した。しかし国の制限が緩和されると、ミリオネアの移住は再び勢いを増し始めている。

●移動した富裕層の数
2018年=10万8,000人、2019年=11万人、2020年=1万2,000人
2021年=2万5,000人、2022年=8万8000人(仮定)、2023年=12万8000人(仮定)。

●国を去るミリオネア?
 超富裕層が国を動かす理由はたくさんある。脱出紛争もその1つであり、ロシアとウクライナでは当然である。
2022年の終わりまでに、最大の移民数のいくつかを見ると予測されている。

脱出するミリオネア上位10か国
1ロシア1万5,000人
2中国 1万人
3インド 8,000人
4香港 3,000人
ウクライナ 2,800人
6ブラジル 2,500人
7イギリス 1,500人
8メキシコ 800人
サウジアラビア 600人
10インドネシア 600人

 ロシアでは1万5,000人の百万長者が国を離れると予想されているが、ウクライナは、その富裕層のなんと42%が2022年末までに国を離れる可能性がある。中国はまた、億万長者の人口が大幅に減少し、1万人の移動が見込まれる可能性がある。

●ミリオネアの移動先 上位10か国
アラブ首長国連邦 4000人
2オーストラリア 3500人
シンガポール 2800人
イスラエル 2500人
アメリカ 1500人
ポルトガル 1300人
ギリシャ 1200人
8カナダ 1000人 
ニュージーランド 800人
 移動先にオーストラリアが多い理由は、医療費の低さ、相続税の欠如、そして繁栄している経済である。(出典 visualcapitalist 2022年6月15日)

24 大富豪の世界 相場師是川銀蔵

昭和57年度の高額納税者第1位 是川銀蔵

 最後の相場師といわれた是川銀蔵(1897- 1992)は、1931年、34歳で株式投資を始め、年末までに70円の元手で7000円に増やした。1933年に「昭和経済研究所」を設立。
 1977(昭和52)年の「日本セメント」の勝負で30億円を稼いだ。1981(昭和56)年、彼は現地視察を行ったあと、住友金属鉱山株の買い占めを行う。是川は約1500万株を買い占め、200億円の巨利を得たとされる。   
 1982(昭和57)年度の高額納税者番付で、彼は申告所得額28億9000万円で全国1位となった。そのほとんどが、住友金属鉱山株の売却益によるものである。
「84歳の老人が頭と度胸で200億円もの資産を作ったことは、定年退職者にとってまさに希望の星。相場師にはないタイプの人物で、行動力も説得力もある。今までにもいない、これからも2度と出ない人物でしょう」とさわがれた。
●税金問題
 是川が株式売買で大儲けしている割りに、申告所得が少ないとして、大阪国税局は彼の収入を徹底的に洗った。56年の12月に大阪国税局から昭和52年から56年の5年間に合計28億円の申告漏れを指摘され、修正申告を認めさせた。彼の52年から56年にかけての毎年の所得申告額は、それぞれ2021万円、2675万円、5656万円、一億4853万円だった。
 結局、最上眼の税金をとられた上に、過少申告税、延滞利息税が上乗せされ90%くらいの税金をとられることになった。是川は、税金を払うために平成2年1月、大阪の千里の周辺に持っていた3000坪の土地を29億円で売却。その使い道は過去の滞納した税金である。手元に残ったのはたった6000万円、30億円近い利益を得ても、残ったのはわずか2%という。しかも来年には、今年、土地を売って儲けた29億円に対する税金が待っているのだ。(出典 是川銀蔵「相場師一代」小学館文庫 1999)

23大富豪の世界 カジノ王スタンレー・ホー

マカオ・フェリーターミナルのスタンレー・ホー

 香港、マカオの実業家スタンレー・ホー(1921 - 2020)は、マカオで最も富裕な人物であり、「フォーブス」の2006年度世界長者番付で、世界で59番目の長者に選ばれている。
 彼は、マカオのカジノ運営権を期限満了を迎える2001年まで、「マカオ旅行娯楽会社」の経営者として独占していた。2001年に満期を迎えると、マカオ特別区政府は、3つの賭博業の免許を発行することを公布した。
 第一号の免許はホーに与えられた。2号はネバダ州パラダイスに本社をおく上場企業ウィン・リゾーツの会長スティーブン・ウィン(1942生)に、3号はやはりネバダ州ラスベガスに本社をおく上場企業ラスベガス・サンズの会長かつCEOであり、不動産開発業者のシェルダン・アデルソン(1933-2021)に与えた。
 スタンレー・ホーの収入はマカオGDPのおよそ3分の1とされ、また、2003年度に納めた税額はマカオ政府の歳入の30%に達したという。

●ホーの死と遺産
 96歳で引退、引退当時彼の個人遺産は7000億円といわれた。2020年5月に98歳で死亡したスタンレー・ホーには4人の妻と17人の既知の子供がいて、2012年に彼の財産をめぐって家族内で法廷闘争が勃発したが、彼の事業を再構築することを余儀なくされた。カジノ帝国は、選ばれた少数の人々によって管理されることになった。(出典 楊中美『ゴッドギャンブラー』日本僑報社2004)