シュールの本棚

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8 イスラエルの作戦 ダイアモンド作戦(1963-66)

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イスラエル空軍博物館のMiG21

 ダイアモンド作戦は、モサドによって行われた。 その目標は、当時最も先進的なソビエト戦闘機MiG-21の乗取りである。

  作戦は1963年半ばに始まり、1966年8月16日、イラクアッシリア人亡命者ムニール・レドファが、イラク空軍のMiG-21をイスラエルの空軍基地に届けたときに終了した。 

●最初の2回の試み

 戦闘機を奪取する最初の試みは、モサドのエージェント、ジャン・トーマスによりエジプトで行われた。トーマスと彼のグループはパイロットを見つけるように命じられ、パイロットには100万ドルで機体をイスラエルに飛ばすことに同意させる。しかし、最初の試みは失敗した。彼らが最初に接触したパイロットは、トーマスの狙いを当局に報告されたのだった。トーマスと彼の父、および他の3人が逮捕され、スパイ行為で起訴され、1962年12月に2人は絞首刑になり、グループの他の3人のは長期刑を受けた。2回目の試みも失敗した。 モサド工作員は、協力を拒否した2人のイラクパイロットを攻撃することになった。

●3度目の計画

 1964年、イラク生まれのユダヤ人ユスフは、イラクパイロットのレッドファが、キリスト教徒であるため軍隊での昇進を妨げられたことに腹を立てていたことを知った。そこでユスフは、彼ならイラクを離れることができる人材であることを理解した。

 女性のモサド工作員がレッドファに接触を試みた。そしてレッドファに、イスラエルの諜報員と会うためヨーロッパに旅行するよう説得した。諜報員がレッドファに提示したのは、100万ドルとイスラエルの市民権、およびフルタイムの雇用であった。

 一方レッドファは、彼の家族がイラクから無事脱出できることを要求した。その後、彼はイスラエルに旅行して、イスラエル空軍基地を事前に見学し、作戦を打ち合わせた。

●作戦開始

 多くのモサド工作員イラクに派遣され、レッドファの妻と2人の子供、彼の両親、および他の家族のイラクからの移送を支援した。そしてイラク空軍のMiG-21はイスラエルの空軍基地に無事着陸した。このMiGには007の番号が付けられた。この作戦の結果、1967年4月7日、ゴランハイツでの空中戦で、イスラエル空軍は6機のシリアMiG-21を撃墜した。(資料 英文ウィキペディア

7 イスラエルの作戦 ダモクレス作戦(1962-63)

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作戦を仕切ったイサル・ハレルと、エジプトのミサイル

 1956年の第二次中東戦争の後、エジプトのナセル大統領は、イスラエルとの将来の戦争で使用できる地対地ミサイル能力を構築することを、西ドイツに望んでいた。エジプトのロケット計画は、1962年7月にロケットの試射に成功した。

 1962年、モサド長官のイサル・ハレル(1912 - 2003)は、イスラエルベングリオン首相に、西ドイツに対し、ロケット開発の協力をやめるよう働きかけるよう要請した。

 しかし、ベングリオンは西ドイツ政府と衝突しないことを決意した。ハレルはそこで、彼自身でエジプトでのミサイル計画に携わるドイツの科学者とその家族に対して、破壊的な「ダモクレス作戦」を開始した。

●ドイツの科学者への攻撃

 この作戦には拉致と手紙爆弾が含まれ、ロケット科学者ヴォルフガング・ピルツに送られた小包は、1962年11月27日に開かれたときに彼のオフィスで爆発し、彼の秘書を負傷させた。ヘリオポリスのロケット工場に送られた小包は、5人のエジプト人労働者を殺害した。

 エジプトに軍事用ハードウェアを供給しているミュンヘンの会社の責任者であるハインツ・クルーグ(49歳)は、1962年9月に失踪し、殺害されたと考えられている。

 1963年2月、ナチスドイツのV-2ロケット開発に従事していたハンス・クラインワハター博士の暗殺計画は、シャミルのチームの失敗と、別件の工作員2人の逮捕で事件が公になり、3月15日、ダモクレス作戦は終了した。

 当時の外務大臣ゴルダ・メイアと西ドイツとイスラエルの関係を築こうとしているイスラエルの外交官は、この作戦に激怒した。ハレルは1963年3月25日にモサド辞任を余儀なくされ、ベングリオンも同様に3か月後に辞任した。(資料 Operation Damoclesウィキペディア

6 イスラエルの作戦 ノア作戦(1962-69)

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シェルブールからハイファ港の航路と、到着したボート

●フランスのシェルブール造船所から、ミサイル艇を盗み出す作戦。

 1962年後半、イスラエル海軍は、老朽化した駆逐艦を最新のミサイル艇に置き換えることに決めた。

  そこでイスラエルは、ドイツのホロコースト賠償として、西ドイツの造船所にミサイル艇の製造を依頼した。アデナウアー首相は、取引を秘密にすることを条件に、12隻のミサイル艇を建造することに同意した。そして1964年の終わりまでに、3隻のミサイル艇が建造され配達された。(残り9隻)しかし、「ニューヨークタイムズ」に取引のニュースがリークされ、残りのミサイル艇は、西ドイツでは建造できなくなった。そのため急遽建造先を、フランスのノルマンディーの造船所に変更することになった。同時に、ボートに搭載されるミサイルがイスラエルで建造されていた。

 1967年4月、残り9隻のミサイル艇のうち、最初の一隻がフランスから、イスラエル海軍に引き渡され、5月に2隻目が引き渡された。(残り7隻)

 1967年の第三次中東戦争の前夜に、ドゴール大統領は、フランスはもはや中東に攻撃的な武器を供給しないと宣言した。しかし、シェルブール造船所でのミサイル艇の建造は進行中であったため、1967年の秋にさらに2隻の艇がイスラエル海軍に引き渡された。シェルブールでは、ミサイル艇の製造が続けられたが、それが輸出できるかどうかわからなかった。

●作戦準備

 1969年11月、イスラエル当局はミサイル艇の引き取りを放棄せず、リモン提督の作戦指揮により、残りのミサイル艇を確保する「ノア作戦」を開始した。作戦は、80人のイスラエル人将校と、民間人の服を着た船員が、2人づつに別れてヨーロッパを巡る観光客として、シェルブールに向かった。12月23日までに、すべての乗組員が到着し市内に散らばった。

●ボートによる脱出

 脱出の前夜まで、参加要員はボートを維持し続け、80人の乗組員はそれぞれ甲板の下に隠れた。天候の悪化により再び脱出が遅れたが、 2:30にボートはシェルブールを出発した。

 フランス人は当初、ボートの出港に気づかなかったが、港を訪れた記者がすべてのボートが行方不明になっているのを知り、BBCに報告した。これに気づいたフランス国防相のミシェル・ドブレは、ボートを沈めるために空爆を命じたが、フランスの参謀長はこれを拒否した。ボートはすでに公海上にあり、すでに手遅れだった。

 イスラエルのボートは、12月31日にイスラエル北部のハイファ港に到着した。

 シェルブールから運ばれたボートは、その後、イスラエル造船所で新しく改造された。イスラエル海軍は海軍ミサイル戦争の先駆者となり、エジプトとシリアの海軍との海戦に勝ち続け、1973年の第四次中東戦争で成功を収めた。(資料 Cherbourg Project ウイキペディア)

5 イスラエルの作戦 ヤキン作戦(1961-1964)

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ユダヤ人を乗せた船とハッサン国王

 

 

 イスラエルの情報機関モサドイスラエル海軍が共同で計画した「ヤキン」作戦は、モロッコユダヤ人をイスラエルに移住させるものである。

 1950年代の終わりにかけて3回実施されたのは、モサドのシュムエル・トレダノと彼のチームによるもので、モロッコの海岸にボートで着岸し、ユダヤ人の村に向かうところから始まる。

   レダノはパレスチナ難民になりすまし、アラビア語しか話さなかった。 彼は捕らえられる危険にさらされていた。 3回の機会のそれぞれで、彼と彼の部下は暗闇に隠れて、ユダヤ人の家族のいる家のドアをノックした。

 そして彼らに「イスラエルに行くのを手伝う」ことを申し出た。典型的な作戦では、子供とわずかな所持品を携えた家族の出発準備が3時間以内にできた。彼らは最初に墓地に行って、土地を離れること報告した。それから浜辺に進み、小さなボートに乗って、沖合で待っている海軍の船に乗り込んだ。この秘密工作の2年後、約1万人のユダヤ人がイスラエルに連れてこられた。 

●遭難事故以後 

 1961年1月11日、モロッコイスラエルの間の公海で、44人のモロッコユダヤ人難民を乗せた船エゴズが沈没した。

 この悲劇的な出来事は、世界的に注目された。その後、イスラエルは、フランスと米国の政府などに、モロッコに圧力をかけるよう要請した。

  1961年2月パリで開催されたハッサン王、ユダヤ機関、モサド、フランス政府などの代表者会議が行われ、ハッサン国王はモロッコユダヤ人の出国を許可した。

 その条件として、50万ドルが滞納金として支払われ、さらに最初の5万人のモロッコユダヤ人に対し1人あたり100ドルが支払われ、その後1人あたり250ドルになる。この作戦の前には、ニューヨークのヘブライ移民援助協会が、約5,000万ドルの費用を負担した。

 船はカサブランカからフランスに向けて出航し、そこからイスラエルに向かった。

  この作戦は完全に合法ではないが、関係国の暗黙の承認とハッサン王の協力があった。 モサドのエージェントは、モロッコのほぼすべてのユダヤ人地区を訪れ、イスラエルに向かうよう説得したが、彼らの反応は、それほど積極的ではなかった。

 ヤキン作戦の支援の下、8万人以上のモロッコユダヤ人がイスラエルに移住した。(資料 military-history.fandom.com)

 

4 イスラエルの作戦 ツシア作戦 (1956)

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アブラハム・ダーとポートサイドのユダヤ人コミュニティ

 ツシア作戦(ヘブライ語で「創意工夫」を意味する)は、1956年のイスラエルによるエジプトのシナイ砂漠の攻撃(シナイ・キャンペーン)の後に開始された。この作戦では、イスラエル工作員が、エジプトに住むユダヤ人と連絡を取り、彼らにイスラエルに移住するよう説得することからはじめる必要があった。

 1956年11月9日、アブラハム・ダー少佐とアリエ・エリアフは、無線通信士と一緒に、フランスの将校になりすまして戦闘地帯に乗り込んだ。彼らは、大規模なユダヤ人集落があったカイロとアレクサンドリアの方向に行進しながら、イギリス軍とフランス軍と共に前進した。

 しかし、イギリス軍とフランス軍は、米ソの圧力により撤退を余儀なくされたため、3人のイスラエル人は、スエズ運河の北端のポートサイドに取り残された。彼らは、そこで200人のユダヤ人しか見つけられなかった。ほとんどが高齢者のため、イスラエルへの移住には関心がなかった。そこで彼らは、町にあるユダヤ人のシナゴーグに行き、イスラエルに一緒に行くことをいとわない65人のユダヤ人を見いだした。

 3人は密かに彼らを港に連れて行き、イスラエル海軍の2隻の船に乗せ、イスラエルのハイファに直接運んで行った。 数日後、市内の残りのユダヤ人は、2隻のフランス船に乗り込み、マルセイユに運んだ。ツシア作戦はフランス陸軍の支援によって実行できた作戦といえる。(www.haaretz.com 2018.4.20)

3 イスラエルの作戦 ハフェズ大佐暗殺(1956)

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ハフェズ大佐(左)とハルカビ少将

 標的を暗殺する作戦は、イスラエル諜報機関にとって目新しいことではない。しかし、少なくとも1970年代までは、暗殺は最後の手段と見なされていた。

 1950年代、ガザのエジプト諜報機関の司令官ムスタファ・ハフェズ大佐は、イスラエル社会を恐怖に陥れる目的で、ガザ地区からアラブ人の工作員を送り込み、イスラエル人を殺害していた。ハフェズ大佐はその計画を担当していた。

   こうした動きに対抗して、1956年6月、イスラエルの軍部諜報部のディレクター、ハルカビ少将とハイムレバコフ大佐は、ハフェズ大佐の暗殺を画策した。

  ハフェズ大佐は、1956年6月12日、エジプト人の二重スパイから渡された本に隠された爆発装置によって殺害された。実行したエージェントは荷物の中味を知らされなかったため、彼も爆風で失明した。

 翌日、別の本爆弾が東エルサレム郵便局から、ヨルダンの首都アンマンのエジプト軍駐在武官サラ・ムスタファ大佐に送られた。彼もイスラエルに潜入者を派遣していたので狙われ、本の包みを開けて、その爆風で殺された。

  1960年代、郵便爆弾はイスラエル諜報機関の中心的な暗殺ツールで、エジプトのミサイル・プログラムを開発していた元ナチスのドイツ人科学者に対する作戦の一環として用いられていた。

2 イスラエルの作戦 魔法のじゅうたん作戦(1949)

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C−46とイエメン・ユダヤ

 イエメンのユダヤ人のイスラエルへの秘密の空輸。

 1949年アラビア半島南端部に位置するイエメンに、当時約5万人のユダヤ人が住んでいることがわかった。宗教指導者は、彼の国のほとんどのイエメン・ユダヤ人のうち約4万5,000人を去らせることに同意した。彼らは、国の辺鄙な場所から徒歩で空港に向かい、そこでイスラエルの輸送機に乗り込んだ。

 使用した飛行機は延べ380便で、イギリスとアメリカの飛行機も空輸に従事していた。これらの貧しく孤立したユダヤ人のほとんどは、飛行機を見たことがなく、イスラエルに着陸すると、彼らはその飛行機を「魔法のじゅうたん」と表現した。

「魔法のじゅうたん作戦」のパイロットだったカナダのユダヤ人スタンリー・エプスタインは、カーティスC-46輸送機を月に270~300時間飛行したと述べた。1回の旅行で76人の乗客を運び、許可された人数よりも30人近く多くなった。この作戦にも使用されたダグラスDC-4は、60人乗りだったったが、この作戦では150人のイエメン・ユダヤ人を乗せたという。

「魔法のじゅうたん作戦」は。1949年5月から翌年9月末まで実施された。

その過程で、圧倒的多数のイエメンユダヤ人(イエメンから約47,000人、アデンから1,500人、ジブチエリトリアから500人、サウジアラビアから約2,000人)がイスラエルに空輸された。(資料 前回同じ他)