シュールの本棚

世界で日々起きていることは、現実を超えて進んでいる

9 芸術家と金 マリリン・モンロー

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コラージュ/モンローがアーサー・ミラーと結婚したウエストチェスターの家

  アメリカの大女優マリリン・モンロー19621962)は、16歳で結婚したが、里親に戻されないためで、彼女は女優になりたいと思っていた。彼女はモデルとしてスカウトされ、女優志願だった彼女は、最終的にハリウッドと契約を結んだ。

 1951年からフォックス社と新たな契約(1000ドル)したが、十分な賃金を支払わないことに不満を抱いていた。1955年後半、フォックス社とあらたに契約を結び、より多くの給与(1500ドル)を得た。この年、白のスカートが捲れ上がる映画『七年目の浮気』で、スターの地位を勝ち取った。翌年の給与は10万ドルに上がった。

 1959年には『お熱いのがお好き』でゴールデングローブ賞主演女優賞を受賞、この年の給与は30万ドルに上がる。1961年公開の『荒馬と女』が遺作となる。196285日、彼女はロサンゼルスの自宅で薬物の過剰投与で死亡。(36歳)

 彼女の23本の映画は、当初合計2億ドルの収益を上げた。彼女が死んだとき、モンローは彼女の財産の大部分を、彼女の演技コーチのリー・ストラスバーグに残した。彼女はまた、母親、異父母、そして親しい友人にお金を残した。「セレブ・ネットワース」によると、彼女の財産は現在の価値で1,000万ドルあったという。

8芸術家と金 チャップリン

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コラージュ/映画『黄金狂時代』で山小屋が落ちそうになる。

 チャールズ・チャップリン(1889 - 1977)は、イギリス出身の映画俳優、映画監督。映画史で最も重要な人物のひとり。

 19歳でカーノー劇団に入り、コメディアンとなった。アメリカ巡業中に映画会社からスカウトされ、週給150ドルで契約を交わし、1914年に映画デビューした。彼の映画が評判になり、その年末、チャップリンは、契約更新として週給1000ドルを要求したが拒否された。そこでチャップリンは、週給1250ドルのギャラと1万ドルのボーナスを提示したシカゴのエッサネイ社に移籍し、1919年にはユナイテッド・アーティスツを共同設立した。

 1915年にチャップリンの人気は爆発的に上昇し、映画業界で最初の国際的なスターとなった。12月にエッサネイ社との契約が切れると、次の契約先に15万ドルのボーナスを要求した。1916年2月に、年収67万ドルでミューチュアル社と契約を結んだ。1917年6月、チャップリンは次にファースト・ナショナル社と「100万ドル契約」の配給契約を結んだ。この契約では、8本の映画を制作し、1本あたり12万5000ドルの前金を受け取ることが決定した。

 1927年1月に2番目の妻が離婚訴訟を起こした。チャップリンは60万ドルの和解金を支払い、リタとの離婚が成立した。

1930年12月に『街の灯』が300万ドルを超える興行収益をあげた。

 1952年『ライムライト』のワールド・プレミアのために、彼はロンドンに向かったが、2日後に司法長官が、これまで政治的に問題を起こしたとして、彼の再入国許可が取り消した。そこで彼はアメリカにある財産をヨーロッパに持ち出す決定をし、スイスに移住することに決めた。

 1977年12月25日のクリスマスの早朝、チャップリンは自宅で睡眠中に脳卒中のため亡くなった。『キッド』(1921)、『黄金狂時代』(1925)、『街の灯』(1931)、『モダン・タイムス』(1936)、『ライムライト』(1953)などの傑作がある。

7 芸術家と金 ドストエフスキー

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コラージュ/カジノに入浸りのドストエフスキー

 ロシアの作家ドストエフスキー(1821-1881)は、空想的社会主義サークルの一員となり、1849年に官憲に逮捕され、死刑判決を受けるが、銃殺刑執行直前に特赦が与えられ、シベリアに流刑となる。この時の体験後に『死の家の記録』(1869) を著す。刑期を終え、1858年にペテルブルクに帰還する。

 1866年の11月までに出版に新しい小説を含む彼の作品集出版契約で、3000ルーブルを受取る契約を結んだ。彼はすでに多くの借金を抱えていたので、ドストエフスキイー自身が使える金はわずか175ルーブルしかなかった。この金をもって、彼はウィスバーデンに出発。着いたのは1866年8月10日頃で、旅行中彼はルーレットを試みて悉く失敗した。

 彼がこの賭け事を体験したのは、1863年の夏、初めて外国に旅行した時で、1000フランを儲けたからである。今回の旅行では更に賭博を試み、8月15日までに所持金のすべてを無くしてしまった。彼は多くの知己へ手紙を出して借金を要求し、コペンハーゲン経由でペテルブルグに帰って来た時には、無一文になっていた。1866年に『賭博者』『罪と罰』を発表し評判となる。1880年に、『カラマーゾフの兄弟』を脱稿。その数ヵ月後の1881年1月死亡。

6 芸術家と金 マーロン・ブランド

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コラージュ/映画「地獄の黙示録」に出演したブランド

 マーロン・ブランド(1924 - 2004)は、アメリカの映画俳優。

 ニューヨークのプロの演劇学校に入学。ブロードウェイの舞台『欲望という名の電車』で亭主を演じて注目される。1951年、映画『欲望という名の電車』で同じ役を演じ、『乱暴者』(1953)でオートバイに乗る反抗的な若者を演じ、若者がそのスタイルを真似るようになる。

 1954年に、カザンの『波止場』でアカデミー主演男優賞を獲得、名実共にトップスターになる。

 ハリウッドに入った頃から、自分が気に入った脚本にしか出なかったが、現金が必要となり、内容のない作品にも多数出演するようになった。素行の悪さから映画会社や監督から嫌われ、俳優としての評価もギャラも下がった。

 1967年にタヒチ諸島のテティアロア環礁を所有してからは、俳優業を「島の環境維持」と割り切るようになる。しかし、1972年の『ゴッドファーザー』(1972)で、再び第一線に復帰。1972年の映画「ラストタンゴインパリ」で彼は300万ドルを稼いだ。

 1975年の『ミズーリ・ブレイク』 (1976)からは、莫大なギャラと収益の一部を得ることが出演条件となった。1978年の『スーパーマン』では、世界一ギャラの高い俳優としてギネス記録に載った。映画は大ヒットし、ブランドは1400万ドルという破格のギャラを手にした。2004年7月、UCLAメディカルセンターにて呼吸不全と心不全で死亡。亡くなったブランドは、2,160万ドル相当の遺産を残した。(資料/英語版「ウィキペディア」)

5 芸術家と金 クリムト

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コラージュ「装飾美が引き寄せる札束」

 グスタフ・クリムト( 1862- 1918)は、『接吻』(1908)で有名なオーストリアの画家。1879年にクリムトは、弟と友人のフランツ・マッチュと共に、共同で美術やデザインの請負を始めた。卒業後に3人は芸術家商会を設立した。劇場装飾を中心とした仕事はすぐに軌道に乗った。1886年から1888年まではウィーンのブルク劇場(背景写真)の装飾を引き受け、これは後に金功労十字賞を授与されている。1888年の『旧ブルク劇場の観客席』は、第一回皇帝賞を受けた。

 後にウィーン工房によるストックレー邸の壁画制作などを行い、上流階級の婦人たちの肖像画を多く手がけた。裕福なインテリ層(多くの場合、ユダヤ人のコレクター)はクリムトを受け入れ、画家に妻の肖像画を描くように勧めた。肖像画が彼らの配偶者と似ていないことは問題にならなかった。 女性はクリムトのお気に入りの科目だった。

 1910年頃、クリムトのスタイルは、高度な装飾空間から進化し始めた。しかし彼はこの新しいスタイルを開発する時間がなかった。第一次大戦の勃発で、芸術的成果が制限され、1918年1月11日に脳卒中を患った。麻痺した彼は病院に移され、そこで肺炎で倒れ、2月6日に死亡した。

 彼の死後数年間、彼は人気のある芸術家にとどまったが、2006年に「アデーレ・ブロッホバウアーの肖像」(1907)が、1億3500万ドルでエスティ・ローダー社長に販売されてから、クリムトの名前がマスコミに登場するようになった。

4 芸術家と金 ワーグナー

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コラージュ「ワグナーの熱に歪んだワリキューレ」

 ドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)は、彼の生活の大部分を借金で過ごした。

 1833年、20歳のワーグナーは最初オペラ『妖精』を作曲。1834年にマクデブルクのベートマン劇団の指揮者となり、女優のミンナと結婚した。1839年3月にリガの劇場を解雇される。7月、債権者から逃れたワーグナー夫妻は当初、嵐の海路をロンドンに向かい、そこから『さまよえるオランダ人』のヒントを引き出した。 ワーグナー1839年9月にパリに到着、1842年までそこにとどまった。ドレスデンでの『リエンツィ』初演は大成功に終わり、これによってワーグナーはようやく注目された。
ルートヴィヒ2世
 ルートヴィヒ2世
1845 - 1886)が18歳でバイエルンの王位を継承したとき、ワーグナーの運命は1864年に劇的な好転を遂げた。若い王は、ワーグナーのオペラを熱烈に愛し、ワーグナーの多額の借金を清算し、彼が計画したオペラを上演することを提案した。ルートヴィヒの主張で、『ラインの黄金』と『ワルキューレ』が1869年と1870年にミュンヘンで上演された。
 1871年ワーグナーは新しいオペラハウスとなるバイロイトに引越した。町議会は、劇場の場所に広大な土地を寄付した。翌年、ワーグナーは町に移り、バイロイト祝祭劇場の建設が始まる。建設資金のためいくつかの都市で「ワーグナー協会」が結成され、ワー​​グナーはドイツのコンサートツアーを開始した。しかし1873年の春までに、必要な資金の3分の1しか調達できなかった。ルートヴィヒへの嘆願は当初無視されたが、1874年の初め、国王は容赦し融資を提供した。劇場は1875年に完成し、フェスティバルは翌年に予定された。しかしお祭りは約15万マルクの赤字で終了した。

3 芸術家と金 チャイコフスキー

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チャイコフスキーの住居、左は若きチャイコフスキー、 右はメック夫人

 ピョートル・チャイコフスキー(1840 - 1893)は、ロシアの作曲家。バレエ音楽白鳥の湖」、交響曲第6番『悲愴』が有名。
 ロシア初のプロの音楽院で訓練を受けたチャイコフスキーは、急速に進化するロシアの音楽社会、オペラハウスや劇場、コンサート組織、出版社と交流する方法を特定した。それでも、チャイコフスキーは浪費家で、支出の管理はできなかったようだ。
 彼は1865年12月にペテルブルク音楽院を卒業し、1866年1月にモスクワに転居、帝室ロシア音楽協会モスクワ支部で教鞭をとる。この支部からモスクワ音楽院が創設され、チャイコフスキーは理論講師として12年間ここで活動する。
 1876年36歳の時、『テンペスト』を聴いて感激した富豪の未亡人ナジェジダ・フォン・メック夫人(1831 – 1894)から、年間6000ルーブルの資金援助があり、1890年までの14年間、援助を受ける。これは彼がモスクワ音楽院の教授職を離れて、創造的な仕事に専念できる額である。また1885年にロシア音楽協会のモスクワ支部局長に選ばれるなど、社会的にも恵まれていた。1893年10月、『悲愴』が作曲者自身による指揮で初演。それから9日後の11月6日に急死。53歳。カザン大聖堂にて国葬が執り行われた。