シュールの本棚

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3モスクワの盛衰 映画「戦艦ポチョムキン」

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映画「戦艦ポチョムキン」のポスター

 1905年に起きた戦艦ポチョムキンの反乱を描いた映画『戦艦ポチョムキン』は、1925年に製作・公開された。監督はエイゼンシュテイン(1898 - 1948)で、「第1次ロシア革命20周年記念」として製作された。
 1905年、「血の日曜日」事件で民衆を弾圧し、日露戦争を継続するツァーリ政府に対する不満は、兵士の間にも広まった。5月には日本海海戦バルチック艦隊が全滅した。6月、ロシア海軍黒海艦隊の戦艦ポチョムキンの乗組員が、反乱を起こし艦を乗っ取るという事件が起きた。戦艦はオデッサ港に入港、港で反乱軍を迎えた市民がコサック兵に虐殺される事件も起きた。ポチョムキン号は1週間黒海をさまよった末、ルーマニアのコンスタンツェ港に入って武装解除された。 
映画では、「オデッサの階段」と呼ばれる、オデッサの市民が階段を駆け下りるところを、兵士に狙い撃ちされ虐殺する有名なシーンがある。しかし、実際にはこの階段の場面は史実とは異なるといわれる。

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階段での逃げ惑う市民たちのシーン

●上映
この映画は1925年12月24日、モスクワのボリショイ劇場ロシア革命20周年記念式典として上映された。日本では、政府による上映禁止が取られていた。1959年に自主上映により、初めて公開され、1967年に劇場での一般公開が実現した。

2モスクワの盛衰  粛清の歴史

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演説するレーニン(1917年)

 レーニンの死(1870 – 1924)で権力を握ったスターリンの粛清記録は、「1934~41年の逮捕者は1850万人で、うち銃殺100万人」(「ミコヤン回想録」)とある。スターリンのこの恐ろしい数字で、レーニンの暗いイメージは隠されたが、彼には革命を成功させるための恐るべき過去があった。以下は英歴史家ポール・ジョンソンの『現代史(上)』共同通信社1992年にある、レーニンによる粛清の歴史である。

レーニンの革命方針
 レーニン主義革命の悲劇は、ロシア特有の統治方法を復活させたことにある。
 テ口で脅迫し、警察力を使って弾圧する方針は、早い時期にレーニンが決定を下し、軍事主任のトロッキーがこれを支持したことはまちがいない。(…)これは他面において、レーニンの性格の一部である権力への意志の表われだった。事実すでに1901年に、レーニンは「われわれは原則としてテロを否定していないし、これからも否定することはありえない」と警告し、「人は革命に対しどういう態度をとるかだ。賛成か、反対か。もし反対だと言うなら銃殺刑にするまでだ」とも言いきった。(103p)
●「チェカー」の発足
レーニンが発足当初から、「反革命サボタージュ」と戦う組織「チェカー」を、徹底して情け容赦なく活用するつもりだったことに疑問の余地はない。1917年12月から翌 年1月までに人員をかき集めると、さっそく活動を開始し、まずすべての地方ソヴィエトから「革命と人民政権に反抗する組織あるいは個人の情報」を集める全国的スパイ網をつくりあげた。
このようにチェカーは、当初から一般人や臨時の密告者の助けを利用していたわけで、その数は時を追っ て増大した。専従職員の数も限りなく増えた。ツアーの保安警察の人口は1万5000人だった。それに対して、チェカーは設立以来3年のうちに25万の専従職員を数えるにいたった。活動規模もそれだけ大きく、帝政時代末則には年平均で17人が処刑されただけだったが、1918年から19年にかけてのチェカーによる処刑数は、政治犯だけで1カ月平均1000件にのぼった。(105p)
レーニンの煽動
 チェカーが出現して数週間のうちに、最初の強制労働収容所が設立された。「ブルジョワなら男女を問わず」ペトログラードの防衛壕掘りに動員するよう指示した人民安員会議の布告がその産みの親である。
 ルビヤンカ広場にある保健会社の大きな建物が接収され、そのなかに政治犯容疑者のための「内部刑務所」 がつくられて、以後チェカーレーニンに直属する独立した政府部局となった。
 1918年1月、内戦の始まる3カ月も前に、レーニンは「なまけ者10 人につきひとりをその場で射殺する」ことを主張し、一週間後には「やま師たちにはテロ(その場で射殺)を用いないかぎり、なにも達成できない」と公然とチェカーをせきたてた。レーニンの煽動は効果をあげ、1918年の前半、チェカーが行なった処刑件数は公式の発表ではわずか22人だったが、革命の目撃者で革命史家のW・H・チェンバレンは、1920 年末までにチェカーは5万人を死刑にしたと見積もっている。 (107p)

1 モスクワの盛衰 KAL機撃墜事件(始め)

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撃墜されたボーイング747型旅客機

 1983年9月1日、アンカレッジ国際空港からソウルに向かって飛行中の大韓航空ボーイング747が、ソ連領空のカムチャツカ半島を通過して、ソ連空軍の戦闘機に撃墜された。乗員・乗客合わせて269人全員が死亡。国別に韓国(乗客乗員をふくめ105名)、アメリカ(62名)、日本(28名)、台湾(23名)その他51名であった。
 当事者である韓国は、当時ソ連との国交がないので、ソ連への抗議や交渉、国連での活動は、主に国連加盟国でソ連と国交がある日本(28名)とアメリカが行った。
 事件後すぐに、日米ソの船舶や航空機が樺太の西の海馬島周囲の海域を船舶や航空機で捜索した。しかしソ連は領海内への日米の艦艇の立ち入りは認めず、公海上での捜索にも日米の艦艇に対して進路妨害などを行った。
 その後、ソ連は回収した機体の一部や遺品などの回収物件を日本側へ引き渡したが、一方で「これ以外に遺体は見つかっていない」こと、「ブラックボックスは回収していない」ことを主張した。
 
●グロムイコ外相の見解
この事件の数日後にマドリッドで、各軍縮会議が開かれた。この時出席したのソ連のグロムイコ外相(1909 - 1989)は、アメリカのシュルツ国務長官(1920 - 2021)に、この事件に関するソ連側見解を次のように述べた。
 「われわれはアメリカ側が重大な、事前に計画された反ソ行動をとっていることを非難する。アメリカ側の声明はわが方の確信を揺るがしはしない。いったいこの航空機は航路から500キロも逸れて、公海ではなくソ連国境内へ、それも極東ソ連の最重要軍事地域の方へ飛ぴ、2時間以上もソ連領空を侵犯した。これが事故のせいだというのだろうか」。 さらに言った。「この航空機は、ソ連領空にあるとき国際法およびソ連国内法に厳密にのっとって発せられた警告シグナルと着陸命令になぜ従わなかったか」。 シュルツはこれらの質問にいっさい答えられなかった。(「グロムイコ回想録」448頁 読売新聞社発行1989年より)

 事件から9年後の1992年10月、KAL遺族代表団と米国国務省当局者は、ロシア連邦初代大統領のエリツィン大統領(任期1991-99)の招待を受け、モスクワを訪れた。遺族代表団は、クレムリンの聖キャサリンホールでの式典の中で、ロシア語に翻訳されたKAL 007のボイスレコーダーの部分的な写しと、悲劇に関連する政治局の文書を含むポートフォリオを手渡された。(資料 日本及び英文ウィキペディア

24 ソウルの盛衰 青瓦台(終り)

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大統領官邸青瓦台

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迎賓館

 青瓦台(せいかだい)は、韓国ソウル特別市鍾路区の北岳山の麓に所在する大統領官邸である。
本館、迎賓館、大統領官邸、外賓接見所の常春斎、対メディア窓口である春秋館などがある。
 「本館」は、大統領の執務などに使用されている建物で、1991年に新築された。大統領執務室があり、閣議が開かれる場所である。「迎賓館」は大規模な会議、外国国賓に受け入れ、多くの公式行事などを開催する建物として1978年に竣工された。「大統領官邸」は大統領とその家族が生活する場所で、1990年に竣工された。「常春斎」は1983年に新築した純韓国風建物で首脳会談が開かれる。見学は事前予約制のみ可能。
●歴史
 青瓦台がある地域は、李氏朝鮮創始者李成桂(1335 - 1408)が建設した「景福宮」の北側に隣接していている。日本統治時代の1939年7月、朝鮮総督官邸が建設された。戦後の1948年に大韓民国が成立すると、初代大統領李承晩(1875 - 1965)が、官邸及び公邸として使用した。当時の名称は「景武台」であったが、1960年12月に「青瓦台」に名称を変更した。(資料 日本、韓国ウィキペディア

23 ソウルの盛衰 韓国滞在外国人

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表 2019年に250万人を突破した韓国滞在外国人

  韓国法務部が発表した統計月報(2019.12)によると、2019年12月末現在に滞在する外国人は252万4656人となり、初めて250万人を越えた。
 これまでの滞在外国人は、2007年に100万人、2016年に200万人を突破。2019年に250万人を突破した。252万人のうち、90日以上の長期滞在申告は173万1803人(68.6%)で、短期滞在者は79万2853人(31.4%)である。
●国籍別
 1位中国=110万1782人(43.6%)。うち70万198人(63.3%)は、韓国系中国人。
 2位ベトナム=22万4518人 、3位タイ=20万9909人、4位米国=15万6982人、5位日本=8万6196人、6位ウズベキスタン=7万5320人、7位フィリピン=6万2398人、8位ロシア=6万1427人、9位インドネシア=4万8854人、10位モンゴル=4万8185人、11位カンボジア=4万7565人の順。
●登録外国人の居住地
 1.京畿道(41万4318人)、2.ソウル(28万1876人)、3.忠清南道(世宗市を含む・7万6375人)、4.慶尚南道(7万6123人)、5.仁川(7万2259人)、6.慶北(5万8119人)、7.釜山(4万5999人)、8.忠清北道(4万714人)、9.全羅南道(3万4638人)、10.全羅北道(3万3074人)の順。不法滞在外国人は、39万281人。
●外国人留学生
 合計で18万131人で、国籍は1.中国(7万1719人)、2.ベトナム(5万7539人)、3.ウズベキスタン(1万499人)、4.モンゴル(8739人)、5.日本(2887人)、6.ネパール(2331人)、7.パキスタン(1905人)、8.インドネシア(1461人)、9.インド(1451人)、10.バングラデシュ(1千387人)の順。
●難民申請者
 2019年難民申請者は1万5452人で、2018年より4.5%減少。
 2019年12月まで難民申請者は6万4358人にのぼる。審査が終了した2万8600人のうち、1022人を難民として認定され、2217人が人道的滞在許可を受けた。(資料=聯合ニュース(2020.2.17 )

22 ソウルの盛衰 結婚と誕生

 韓国の婚姻件数は9年連続で減少しており、2020年には年間21.4万件となった。
 2020年の婚姻件数は、前年比10.7%減の21万4,000件と過去最低を記録した(韓国統計庁)。9年前の2011年の婚姻数をみてみると32万9千件だから、9年間で約35%減少したことになる。
 結婚が減少した原因には、女性の社会的自立で、結婚を必要としないと思う人が増えていることや、韓国の経済環境の悪化にあると思われる。仕事を理由に結婚を遅らせる女性も多く、女性の初婚年齢は平均30.8歳と晩婚化が進んだ。一方、2020年の離婚件数は10万7,000件と3.9%減少した。
●出生児も減少
 婚姻件数の減少や女性の晩婚化が、出生率の低下を加速させている。
2011年に47万1千人(出生率1.24)が、2020年には27万2千人(0.84)
と、年間出生者数が9年前の42%減小した。

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出生児数と出生率(出典 統計庁)

 

21 ソウルの盛衰 海外移住の急増

●海外移住の増加
 韓国人の海外移住者の数が増加している。韓国外交部の「海外移住申告者現況」資料によると、移住先の国別で、米国へは909人(2017年)から3223人(2018年)と増え、カナダは同時期209人から1092人へと増えた。オーストラリアも105人から547人に増加した。
(注)2017年12月に「海外移住法」が改正され、この数字は縁故移住(結婚や親族関係の移住)、無縁故移住(就職などでの移住)、現地移住(現地で永住権を取り移住)の数値を合算している。

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海外移住申告者の現状(2019.7.9 韓国外交部)

●急増傾向、コロナ事態で停滞
 急増していた海外への移住者の数は、コロナによる渡航制限などにより急減した。
 米国は1868人(2019年)から833人(2020年)と激減、カナダは同時期789人から238人へと減少した。オーストラリアも374人から156人に減少。しかしこの数字は、コロナ終焉後に再び増加することが予想される。
●韓国内への移民も増加
一方、外国から韓国に移民している数値も韓国統計庁から提供されている。それによると、
(外国人)2019年5月に基準15歳以上、国内常駐外国人は132万3千人で、前年比2万2千人(1.7%)増加。
・国籍別 ベトナム(1万7千人、11.3% )、その他アジア(1万2千人、3.2%)などで増加し、韓国系、中国(-1万4千人、-2.8%)などで減少 いることがわかった。(資料 kostat.go.kr)